□SURVIVAL second 2□



 やがて、窓の外に小さな川が見えてきて俺は身体を乗り出した。
 透明な水が白みを帯びた様々な岩の間を流れている。川幅は二メートルぐらいだけれど、岩に囲まれた全体だと十メートルはありそうだ。山の頂上から湧き出ているだろう水は遠くからでも澄んでいることがわかる。窓から入ってくる空気にひんやりとしたものが混じってきて俺は大きく息を吸い込んだ。
 少しの気持ちよさも今の俺には貴重なんだ。身体中はジュースが乾いてべとつきは絶好調、飛ばした精液はぱりぱりとシャツや肌にはりついている。
 道と川の間の鉄柵の切れ目を見つけると、中嶋さんがそこで車を止めドアを開けた。
「洗いにいくぞ、降りろ」
 慌ててドアを開け、中嶋さんについて柵の間を抜けて川辺の緩やかな斜面を降りていく。川の流れる音と鳥のさえずりに次第に気分が上昇してきて、早く水を浴びたくて早足になる。
「慌てるとこけるぞ」
「こけませんっ」
 からかう口調に機嫌の悪さは感じない。あの後すねている俺を相手にもしなかったけれど、俺の方は次第に頭に血が戻ってきて、だんまりを決め込んでいる俺に怒ってはしないかと不安になり始めていた。いじわるをされたのは俺の方なのにびくついてしまうなんて情けない話しだけれど、勇気を出して強気になってみてもすぐ怖気づいてしまうんだ。どうしても中嶋さんに強い態度に出れないのは、ふたつも歳が離れているとか、中嶋さんが下手に出るなんてありえないこともあるけど、一番の要因は俺の方が中嶋さんに惚れてしまっていることだと思う。
 まだ右側の乳首もひりひりするのに、俺の身体はどこか物足りないと感じているなんて。本当にしょうがないやつだよ。
「わぁ……! すごく綺麗ですね」
 やがて勢いよく流れる川の側にたどりつき、俺は急いで靴と靴下を脱いでズボンをたくし上げ水の中に足をつけてみる。
「つめた……っ!」
 足首まで浸かり、その冷たさと心地よさに先ほどまでの不快感が一気に払拭されていく。両足で浸かりざぶざぶと足踏みをすると足の裏になめらかな小石の感触が気持ちいい。少し離れた場所で手をすすいでいる中嶋さんに声をかける。
「中嶋さんも入ってみてください、すごく気持ちがいいですよ」
「遊んでないで早く服を洗え、時間がない」
 そうだったと今更思い出して俺はシャツを脱いで川の水に浸し、屈んですすぎ始めていると、いつの間にか俺の目の前に、ズボンをたくし上げて裸足になった中嶋さんがいて俺のシャツを奪い取る。
「下着もそのズボンも汚れてるだろうが、さっさと全部脱げ」
「それじゃあ着るものがなくなるじゃないですか」
 見上げるその前で中嶋さんが自分のシャツのボタンを外し、勢いよく脱いで俺に放り投げてきて、慌てて水面ぎりぎりでそれをキャッチする。
「乾くまでそれを着てろ」
「で、でも……っ」
「俺しか見ていないんだから今さら恥ずかしがるな」
 誰かいれば脱げないのは当然だけど、一番見られたくない人が側にいるから脱ぎたくないんじゃないか。そう反論すればせっかく貸してくれたシャツを取り返され素っ裸で洗濯させられそうな気がして、おとなしく前をシャツで隠しながら脱ぐ。また離れて中嶋さんが上半身裸で俺のシャツを洗っているのが見える。みっともない俺の裸をからかうつもりはなかったらしい。
 逞しい背中の筋肉が太陽に照らされて惚れ惚れするのと同時に、川の中で屈んで背中を丸め洗濯している姿があまりにもおかしくてつい吹き出してしまい、慌てて口を覆ったけれどもう遅い。振り向かれすごい形相で睨まれてすくみ上がり、目を逸らして気付かないふりをして下着とズボンを川に浸し洗い始める。
 誰もいない川で男が二人洗濯しているなんて滑稽すぎる。しかも男は中嶋さんだぞ、中嶋さんが川で洗濯をしてるんだぞ、これが笑わずにいられるものか。ダメだ、ますます笑いがこみあげてきて声を出さず肩を震わせて笑ってしまう。
「……いつまで笑ってる」
「いっ! 痛いです中嶋さんっ」
 絞った俺のシャツで頭をはたかれて、水の中のズボンと下着を奪われる。俺ののろい動作に我慢ができなかったらしく、素早く水気をとり適当にたたむと岩の上にすべて放り投げた。
「次はお前だ」
「へ?」
 せっかく貸してもらったシャツを無理矢理剥がされ、ろくに抵抗できないまま全身丸裸にされると、軽く突き飛ばされ川の中にしりもちをついてしまう。水しぶきが顔にも頭にもかかり、頭を振って水をはじきながら抗議した。
「なな、何するんですかっ!」
「お前の身体が一番汚れてるだろうが」
 だからといって突き飛ばすなんてひどすぎる。中嶋さんが側で屈みこみ俺を見下ろしてせせら笑った。
「見られないよう隠してやるから、特にそこは丹念に洗っておけ」
 目線の先は腰まで浸かったその下の冷たさに縮こまった部分で、広がっていた足を閉じて隠す。どうやら中嶋さんは車を止めた道から俺が見えないように座ってくれているようだけど、こんな至近距離でどうやって洗えっていうんだ。しかも滅多に見られない裸の上半身がアップになって目のやり場に困るんだ。ふくれてじっとしているとまるで子供を相手にするように水をかけてきた。
「ちょ、ちょっと、中嶋さんっ!」
「手伝ってやるからさっさとしろ」
 べとついていた胸めがけて水をかけているらしく、それが手伝っていることになるらしい。その顔はこの上なく楽しそうで、手伝ってるのか俺で遊んでいるのか一目瞭然だ。本当に子供になったような気分で俺はおとなしく手の平で胸をすすぎ始める。
ぬめりがなくなるまでそうしたあと、水に浸かった股の間を足を立てて中嶋さんから隠しながらおずおずと手を動かした。からかうような視線が痛い。
「ちゃんと洗ってるのか」
「洗ってますっ」
「皮も剥いて洗えよ、垢が溜まりやすいからな」
「な……な……っ、何言ってんですかっ!」
「……なんだ? 包茎の啓太くん」
 綺麗な口を歪めて言われ、恥ずかしさと怒りで顔に血が上り中嶋さんを睨みつけてもいつもの如く効き目はない。怒りをぶつける場所がないのでごしごしと強引にそこを洗って無視することにする。言われたとおり無理矢理剥いて洗ってもみた。冷たい水に敏感な先端が沁みてまたヘンな気持ちになりそうだ。
 必死で洗っていると腕時計をちらりと見やった中嶋さんが突然俺をおいて立ち上がり、慌てて俺は身体を丸くする。また中嶋さんのシャツを背中にかけられて見上げると、仕事の顔に戻った中嶋さんの顔がある。
「行くぞ、もたもたしている場合じゃなかった」
「え、もうですかっ?もうちょっとぐらいここで……」
「予定より一時間近く遅れてる」
 中嶋さんが不機嫌そうに舌うちして、浮かれていた気持ちが一気にしぼんでゆく。
「そんなの……遅れたのは中嶋さんのせいなのに……」
「何だって?」
「な、なんでもありません……じゃああと五分だけ、五分だけ待ってください。ねっ?」
「……五分だけだぞ、先に車にもどるからきっちり戻って来い」
 そうじゃない、俺一人でここにいたいわけじゃないんだ。中嶋さんと一緒にこうやって会話していたいからなのに、学園の外で一緒にいれる僅かな時間を楽しみたいのに。川から上がろうとする中嶋さんのズボンをつかんで引き止め、立ち上がり思い切って中嶋さんの胸に飛びついた。
「中嶋さんも一緒にいてくださいっ」
 素肌が触れ合い、ひんやりとした肌が気持ちいいのに中嶋さんは俺の肩を掴んで引き離し歩き出そうとする。
 俺の五分だけのお願いもどうして聞いてくれないんだよ。少しぐらい相手してくれたっていいじゃないか。中嶋さんは気まぐれに俺に触れるくせに俺が望む事を一切叶えさせてくれないなんてひどいよ。
 ずっと話せなくて寂しかった時に突然訪れた今日という日を、俺がどれだけ楽しみにしていたのか教えてやりたい。そして今の俺がどれだけ幸せなのかも。うまく気持ちを伝えられない俺はただ抵抗するしかなくて――
 俺はばしゃばしゃと水の中を走って中嶋さんから離れる。
「俺帰りませんから! ここでもっと休んでからじゃないと車に乗りませんから!」
 水が腰の高さまできても強引に突き進んで、五メートル程の距離から俺は中嶋さんに向き直って叫んだ。せっかく借りた中嶋さんのシャツも半分水に浸かってしまう。
中嶋さんがあきれたように眉を一瞬寄せたけれど、そのまま俺に背中を向けて歩き始めてしまう。そうされることはなんとなくわかってたけど、本当に相手にされないことがくやしい。
 靴を履いて遠のいていく中嶋さんの背中は一度も俺の為に動かない。
 いつもそうなんだ。俺だけが中嶋さんを追いかけて、一度も振り返ってはもらえないんだ。
「俺の……頼みも少しぐらい、聞いてくれたって……っ、中嶋さんのばかっ!!」
 俺も中嶋さんに背中を向けて川の下流に向かって歩き出す。引き下がるつもりなんかない、中嶋さんが追いかけてくれるまで絶対に引き下がらない覚悟なんだ。
 その時だ。視界に空が一面に広がったとたん顔が水の中に沈んだ。足が宙に浮いている。地面を探そうと水をかくけれどどこにもあたらない。どれだけもがいても水面に顔を出せず両手をやみくもに振り回して浮き上がろうとする。多分川の深みに足を滑らせたのだ。
 息苦しくて、視界は俺が作る渦で真っ白で何も見えない。
 岩じゃないものが手に触れて、無意識でそれを掴み引っ張る。必死でそれに縋るとそれが俺の腕も掴んできて俺の身体を引き寄せようとする。俺ももう片方の手も伸ばして掴みながら、息苦しさに暴れてしまう。
 水面に浮上してから、俺を助けてくれた中嶋さんの腕の中で、大きく空気を吸いこみながら続く息苦しさに咳こんだ。ようやく落ち着いて見れば中嶋さんも頭からずぶ濡れになっている。俺が暴れて引っ張り込んだせいだった。
「死にたいなら俺の見えないところでやってくれ!」
 背中をさすってくれる大きな手は暖かいのに、はっきりと言い放つ低い声は泣き出したいほどにひどい言葉だ。何度も続く俺の不注意に我慢の限界がきてしまったんだろう。こんな迷惑をかけるやつ、放っておかれて当然だと俺も思ってる。
 なのに、どうして俺をそんなに心配そうな目で見つめるんだよ。胸がしめつけられて、俺は中嶋さんを抱きしめた。
「……ご、ごめんな、さい……っ」
 嗚咽を漏らしながら呟くと、背中に回された手がいっそうきつく俺を抱いて、俺も胸に縋って泣いてしまう。二人とも全身をずぶ濡れにして腰まで水に浸かったまま、中嶋さんは俺が落ち着くまでそうしてくれていた。
「……また、時間が遅れてしまいましたね。俺のせいで……」
「いや、もういい」
 ようやく身体を離して川辺に上がろうと歩いていると、後ろを歩く中嶋さんが不可解なことを言ったので振り返ると、眼鏡をかけていないことにようやく気が付き尋ねてみる。
「……さっきお前の手に飛ばされた」
「えぇっ! ……ホントですか、じゃあ川に落ちたんですか!」
「ああ」
「探さないと!!」
 再び戻ろうとすると止められる。
「よせ、さっき俺も探そうとしたが流れの急なところに落ちたからもう流されてる、無駄だ」
「まだわからないじゃないじゃないですか! まだ近くにあるかもしれないっ!」
 中嶋さんの制止を押しきって俺は溺れたところまで戻り、水の中の落ちているはずの眼鏡を探すけれど、その場所は本当に水の流れが速く、岩の間を大きな音を立てて流れ、小石さえよく見えないぐらいだ。それでも手探りで俺は必死になって探し続ける。
 川の流れに沿って半歩づつ下流に向かっていく。濡れたシャツが身体にまとわりついて、長く水に浸かっていたせいで身体はひんやりしている。その中嶋さんのシャツも俺が濡らしたんだと思うといたたまれない気持ちになる。
 小さなくしゃみをした時、中嶋さんが俺の腕を掴んだ。
「もうやめるんだ。とにかく車に戻って丹羽と連絡をとる」
 何故王様を呼ぶ必要があるのかと聞いたら、思ってもみなかった返事が帰ってくる。
「……眼鏡がなければ運転できない」
「――あ……――」
「このままだと風邪をひく、とにかく車に戻るんだ」
 手を引かれて俺は渋々川から引き上げられ、車道へと戻るため川辺の斜面をよじ登っている中嶋さんの背中を追いかける。洗濯した自分の服を忘れてしまい慌てて一人川に戻った。
「先に戻っていて下さい、すぐ行きますから」



「……つながらない」
 何度見てもあらゆる方向に向けても、液晶画面にうつし出される電波は『圏外』。車に戻り待ち受けていたのは予想もしていなかった事態だった。中嶋さんの眼鏡をはじめ、俺がしでかした数々の失敗は状況をどんどん悪い方向に運んでいくようだ。何も言えない俺は小さく縮こまって目を合わさないよう俯いているしかない。
「……車をおいて公衆電話を探すか、電波の届く場所まで歩くか……どちらが早いか。行くぞ啓太、服を着ろ」
 日にさらされ高温になった岩の上に中嶋さんが広げておいてくれたおかげで、俺の制服はほとんど乾いている。急いで車の影で着替えて借りていた中嶋さんのシャツを持ち、車の中の私物を取り出して準備をする。
 いつからなのか中嶋さんが無言でじっと俺を見ていてドキリとする。
「……啓太、お前はこうしたかったんだろう?」
「な、なにが……ですか」
「……これで八時間で帰るのは不可能だ、その分のしわ寄せの責任を取る覚悟はあるのか?」
「……あります、だってすべて俺の責任ですから……」
「……それならいい」
 そう言うと上半身裸のまま俺を置いて歩き始めて慌てて追いかける。
 学園を出たのが一仕事済ませてからの午後だったので、もう日は傾き始め、中嶋さんの影が長く伸びている。車道の左に流れる川はあいかわらず綺麗な音を響かせている。歩いても歩いても右も左も山の壁で、いっこうに景色が変わらない。何か見えてこないか、時々する会話はそればかりであとはおたがいに無言だ。
 こんな事態になって中嶋さんもさすがに参っているのかもしれない。背中は汗がにじみ、額から流れる汗を時々拭っている。中嶋さんより体力の劣る俺はといえば、もう話す気力も失われ、速度の速い中嶋さんに息を切らしながらついていくのがやっと
だ。思わぬ二人のハイキングはとても苦いものになってしまった。
 すべて、俺の責任なんだ。考え始めると罪悪感と後悔で足が動かなくなりそうで、中嶋さんを見れなくなりそうで、今だけは考えないように努める。これ以上迷惑をかけて中嶋さんの足を鈍らすことだけはしたくない。
 やがて朱色の空が青みがかってきて、中嶋さんが立ち止まり振り返る。
「完全に暗くなれば動けなくなる。あの道に入るぞ、民家でもなんでもいい、とにかく非難できる場所を探すんだ」
 指差した先は、山の中へと入る細い舗装されていない幅二メートルほどの道だ。道があるということはその先に建物があるということだ。
 結局公衆電話どころか、建物ひとつ見つけることができなかった。夜になれば完全な暗闇が訪れて危険な山道を歩くことなんてできない。民家があることを願って俺たちは早足で細い道に入り、うっそうとした木々に囲まれた中を突き進む。山道は思っていたより険しくなく、道は細かい砂ばかりで荒れておらず、頻繁に使われている道だと思わせる。細くならずずっと先まで続いていて、その先はもう闇に包まれかけていてよく見えない。
 もし何も見つけられなければ、二人でここで野宿することになるんだろうか。山の中の深い闇の恐怖を想像しぶるりと背筋が震えてしまう。
 どうか神様、俺のすべての運を使ってもいいから、中嶋さんに野宿だけはさせないで下さい。そうぶつぶつ念じていると中嶋さんが何か呟いた。
「……あそこに何か見えないか」
 中嶋さんは眼鏡をかけていないので俺が代わりに指差す先を目をこらす。
「どこに……、あ!」
 早くも俺の運が使われたのか、目をこらして道の先を見るとぽつんと小さな灯りがひとつ見える。あれはどう見ても人工の光だ。期待に胸を膨らませながらその光に向かって足を早めていく。
 木々が突然途絶え、やがて眼前に現れたのは薄暗い空に浮かび上がる小さな洋館だった。遠くから見えていたのは俺の身長ほどのアーチ型の鉄の門に取り付けられた外灯で、洋館自体はどこにも灯りがついていない。
「誰かの家でしょうか……」
「いや、多分ペンションか別荘だろう」
 確かに洋館といっても外国風というより今の日本の洋式を取り入れたような近代的なもので、白でまとめられた外観はさほど痛んでおらず、今でも使われているような雰囲気だ。
 中嶋さんが鉄柵に足をかけて、見事なフォームでジャンプして中に入り込む。俺は中嶋さんに助けられながら三倍以上の時間をかけて中に入った。大きな洋風庭園を抜けて、大きな玄関を叩いたりチャイムを押したり大声で呼んでみても、やはりなにひとつ反応はない。
「仕方ないな」
 どうしようとおろおろする俺をおいて、中嶋さんがいつくもある窓を端からひとつづつ開いていないか探し始める。玄関で立つ俺から姿が見えなくなって慌てて追いかけると、中嶋さんが建物の裏の小さなドアを開けていて、驚く俺にニヤリと笑った。
「裏口だ」




→next