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□ふたつの我が儘 前編□
中嶋さんは同時に二つのことをやってのけるのが得意だ。
仕事でも学業でも、短時間で淡々と用事を片づける。例えば俺がのらりくらりとコピーをとっている間、二つの全く違った書類を処理している。その上更に、左手には携帯を持ち王様を追跡する指示を出している。何をしても全く無駄がない。
もちろん、私生活でもその手腕は生かされる。
例えば今のように、中嶋さんの部屋で、相手してほしいとごねる俺を適当にあやしながら、顔はテレビの方に向いたままの時。
夜の十時、明日は休日。だから今夜は絶対に中嶋さんと一緒にいたいと思ってた。出かけるような用事はないだろうと踏んでいたし、たとえあったとしても、今日ばかりは無理矢理乗り込んでやるつもりだったんだ。出て行けと言われても、部屋の隅にへばりついて離れない覚悟だった。
だって、学期末テストがあってしばらく会えなかったから。学生会室では忙しくて仕事以外の話をする暇がなくて、付き合ってるとは思えない程そっけない関係が続いていたから。
だけど、負けるまいと構えていた俺を、中嶋さんはあっさりと部屋の中に招き入れてくれた。
部屋に入ると、電気は点いていなかった。テレビから漏れる光が部屋中をうっすら明るくしている。テレビから流れてくる音は静かな音楽と流暢な英語。中嶋さんは映画を見ていたようだった。
「あ、の……」
「ここにいたければ一言もしゃべるな」
俺の問いかけを一掃し、ベットの縁に背をもたれさせ、フローリングの床に腰を下ろす。
中嶋さんは、自分の気に入っている映画を繰り返し何度も見る。くつろげる時間の一つなんだろう。こういう時、一言でも話しかけるとドスの効いた恐ろしい声を否応なしに聞くことができる。
だけど、俺だってさすがに少しは中嶋さんの迫力に慣れてきてる。恐る恐る中嶋さんの隣に腰を下ろし、肩を触れあわせて座ってみる。
いつもの通り、中嶋さんは俺を完全に無視して、再び映画に没頭している。
つまりこうだ。一緒にいたいという俺の願いを叶えながら、自分の見たい映画を見ている。同時に二つのことをやってのけて一石二鳥というわけだ。
側にいさせてくれるだけでも俺にとっては大きな第一歩なので、字幕のない映画には目もくれず、俺は右側に座る中嶋さんの横顔を見上げた。
綺麗な額、高い鼻のライン。少し尖り気味の顎。
テレビから漏れる様々な光がやわらかに頬を照らし、眼鏡を反射する。眼鏡の奥の目は、一心に画面に向かったまま動かない。俺のくいいるような視線に慣れきっているんだろう、気にもしていない。
肌触りのよさそうな黒いシャツが暗闇に溶け込んでいる。長い足は床に無造作に投げ出され、片膝を立ててそこに肘をあてている。大きくて、逞しい身体。
月明かりの下、巨大な黒い豹が牙を潜めて、何かに魅入って動きを止めているみたいだ。
少し動く度、布が擦れる音が部屋に響く。シャツから覗く太く骨ばった手首。
知ってる。この大きく無骨な獣が、どうやって俺を組み敷いてくるのか。覆い被さり、冷たい眼で奥の奥まで覗き込みながら、俺の身体と心を揺さぶるのか。
シャツから覗く首筋にかぶりつきたい衝動を堪え、ごくりと喉を鳴らしてしまう。その音はきっと聞こえたはずなのに、中嶋さんは微動だにしない。
声にならないよう、唇だけで名前を読んでみる。
触れあった腕と腕だけが、唯一の感触。
あと何分で映画は終わるんだろう。いつまで待てば振り向いてくれるだろう。
待てないよ、中嶋さん。抱きしめていてくれるだけでいいから、もっと肌に触れていたい。懐の中に入りたい。
そう、これからが俺と映画との勝負だ。
話が出来なくても、姿を見つめているだけで十分だなんて、もちろん思えるわけないのだ。
音を立てないよう、床に投げ出された大きな手の上に、自分の手を重ねてみる。中嶋さんは逃げも怒りもせず、されるがままになっている。というより、映画に夢中になって気にもしていないというほうが正しい。
硬くて大きな手の甲は、もちろん俺の手の平で包みきることはできない。重ねているだけで体温が浸透していくような気がして、気持ちがいい。
――この頑丈そうな指で服を引きちぎられ、犯される夢を何度も見た。
中嶋さんが俺に襲いかかるなんて絶対にありえないんだけれど、最近セックスをしていなかったせいで、妄想のレベルはマックスに近い。
毎日、何度もオナニーしてる。あるわけないシチュエーションに浸りながら、何度も勃起して射精してる。
体育館倉庫で中嶋さんは言った。『俺を見るだけでいやらしい気持ちにさせてやる』と。事実、その通りになった。中嶋さんを見るだけでいやらしい気持ちになる。今では、頭で姿を思い浮かべるだけで、心の中で名前を呼ぶだけで、身体が高ぶってしまう。
少し前までは悩んでたんだ。好きだから、身体が高ぶるんだろうか。快感を先に教え込まれたから、好きだと思いこんでいるんだろうかと。
だけど今はわかってる。そのどちらでもあって、どちらでもないと。
中嶋さんに見つめられることが、触れてくれることが今の俺のすべて。それだけで十分だ。
腕を絡めて、頬を擦り寄せて匂いを嗅いでみる。微かな石鹸の香り。風呂から上がってきたばかりの俺と同じ匂いがする。
鼻をおしつけてしつこく吸っていると、テレビから女性の悩ましい声が聞こえてきて驚いて顔を上げた。
ベッドの横で、外国人の男女がもつれあってる。多分愛の言葉を囁き、激しいディープキスを交わしながら、服を脱がしあっている。キスの音と、布が擦れあう音。
女性の下着が露わになり、豊満な胸が男の手の中で乱暴に揉まれ始める。女性の大きな喘ぎ声が部屋に響きわたる。
驚くのは、アダルトビデオかと思うぐらいの、激しい濡れた音だ。いやらしいビデオじゃないはずなのに、濡れ場が生々しすぎる。
しばらく動くのを忘れて画面に魅入ってしまう。何度も交わされる、なまめかしいキス。
……中嶋さんに、あんなに激しくキスされたら。
せわしなく、どこまでも追いかけてくるようなキスなんてされたら、きっと失神してしまう。
画面の二人が中嶋さんと俺との行為とタブり、とたん背中を甘い衝撃が這い上がった。
「……っ」
男性の俳優が、中嶋さんに似た髪型をしてる。眉を寄せて女性の胸に埋もれている。大きく拡げられた白い太腿の間に埋まり、腰を押しつけている。
半裸の状態で、我慢できないというふうに身体を揺らしながら、しつこい程にキスを繰り返してる。
男性の唇から覗く、綺麗な歯並びも中嶋さんと同じ。女性の下唇がやさしく噛まれてる。舌が突き出され、唾液が光ってる。
「……ぁ……」
同じことを、俺だってされた。一杯された。
傍目から見ると、あんなにいやらしいキスだったのか。俺なんて自分から舌を出して、もっと欲しいと中嶋さんの舌を欲しがって。キスだけでイきそうになって。
好きな人の唾液にまみれて、どこまでも濡らされている自分を思い出す。
「……な、かじまさ……」
されたい、二人と同じことをしたい。
黙っていることができず、身体を捩らせながら掠れた声で呟いてしまう。
身体が熱い。火照っていた身体は、簡単に映画の中の二人にシンクロしていた。短パンの中はもうはちきれそうになってる。実は部屋の中に入った時から、そこは半勃ちの状態だったんだけど。
じっとしていられない。もっと触れたい。中嶋さんにキスしてほしい。
きっと中嶋さんだってこんないやらしいシーンを見れば、隣にいる俺の事に気付いてくれているはずだ。そう思い、顔を覗き込んでみた。
そこには、先程と全く変わらない硬い表情が鎮座していた。ひどく生真面目な顔でくいいるように見ている。
……暗い戦争映画でも、恋愛映画でも、多分全く微動だにしないんだろう、そんな気がした。
唖然としていると、耳に更にいやらしい声が入り込んでくる。
揺さぶられる、女性の悲鳴のような喘ぎが響きわたり、止まらない。耳を塞いでも聞こえてきて、たまらず中嶋さんの身体にしがみついてしまった。
「中嶋さん……っ」
「うるさい。さっきから何なんだお前は。トイレを貸してやるからさっさと抜いてこい」
「いやだ、そ、そんな恥ずかしいこと……」
「こんなシーンで勃たせてる時点で恥だろうが」
眉を寄せるしぐさは迷惑このうえないといった表情だ。いつもなら話しかけた時点で部屋から追い出されるけれど、今回は僅かにチャンスがありそうな気がして、更にしがみつく。
恥ずかしいけれど、中嶋さんをその気にさせるには、はっきりと自分の意志を伝えることしかない。
「俺、……したいんです、……っ」
「何を」
「……とにかくしたいんですっ」
身体を離すと、床に転がっているリモコンを掴んで停止ボタンを押した。青い画面が部屋を照らし、音が消える。
「……啓太」
唸るような声にもめげず、リモコンを放り投げて中嶋さんに正面からしがみついた。立て膝で強引に首に巻き付いたから、中嶋さんでも引き剥がせない。
しばらくの間、子泣きじじいのようにのしかかる俺と、押しのけようとする中嶋さんとの攻防が繰り返され、とうとう中嶋さんが先に根を上げた。
「わかった、わかったからとりあえず離れろ。苦しい」
しつこく更に約束を交わされて、渋々身体を離すと、中嶋さんの間に座らされる。
「……お前はさかると見境なくなるな……」
そう呟きながら、俺をすっぽりと中嶋さんの身体の中心におさめてしまう。身体を反転させられたので、背中全体に中嶋さんの身体があたる状態だ。
びっくりして硬直している俺からリモコンを取り返すと、小さな電子音とともに、中嶋さんは再び映画を再開させた。
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