□SURVIVAL 3□


 

 目を覚ますと、白い天井が見えた。見覚えがある、そうだ、マンションの天井だ……。
 一体俺、どうしたんだろう、いつの間に帰ってきたんだろう。だるさが残る身体を動かして、ゆっくりベッドから起き上がり周囲を見渡した。電気のついたその部屋はいつもと同じだったけれど、小さなテーブルの上に覚えの無い紙切れがあるのを発見する。その小さなメモには『迎えにくる』という文字が書かれていた。
 よく見知った綺麗な字。中嶋さんだ。中嶋さんがこの部屋に来たんだ。それなのにどうして俺は寝ていたんだろう。迎えに来るって、今までそんなこと一度もなかったのに……。
 そこまで考えた時、俺を見下ろしている中嶋さんの映像が浮んだ。それも、紺のブレザーを着た中嶋さん。
「……俺……っ!!」
 そうだ、俺、俺……中嶋さんに、すごい事を言われたんだ……!! あ、愛、愛してる……って、愛してるって……!!
 俺は一人真っ赤になって、よろめいて膝をついてしまった。何故かどこかで気を失ってしまった俺を、中嶋さんがここまで運んできてくれたんだ。どういう状況で言われたのかは思い出せないけど、その中嶋さんの言葉だけははっきりと覚えてる。
 言われた言葉を何度も何度も頭の中で反芻しては一人で悶え続け、朝の光が部屋に差し込むまで眠ることができなかった。
 俺は結局、その記憶があまりにも強烈だったせいか、それ以外の事を最後まで思い出せなかった。もし思い出せていたら、次の日学校に行くことなんてしなかったかもしれない。
 

 学校へ行くバスの中、俺は中嶋さんと一緒にいた。
 朝、本当に中嶋さんが迎えに来たけれどまだ熟睡していて、乱暴にドアを叩く音に起こされた。何度も謝って許してもらったけれど、「まあ仕方ない」と言って何故か中嶋さんはあまり怒らなかった。
 チラチラと横目で手摺を掴んでいる中嶋さんを覗き見るけど、いつもと変わった様子はない。不思議な感じだった。昨日まで俺は中嶋さんに相手にしてもらえなくてしょげていたはずだった。なのに、今はその悲しさがすっかり消えてなくなっている。
 バスが学校前について俺達は降りた。中嶋さんと一緒に校門をくぐる。通学時間なのでたくさんの生徒が校舎に向かって歩いている中を二人で歩いていると、妙な違和感を感じて落ち着かず、何度も左右を見渡した。
 ……なんだか、みんなに見られているような気がするんだけど……。
「あの、中嶋さん……」
「何だ」
 横で歩く中嶋さんは平然としていて、全く気にしていない様子だ。もしかして中嶋さんが目立つからなのかもしれない。そうだよきっと、中嶋さんは生徒会長に立候補したぐらいなんだから……。
 校舎が分かれる所まで来て、中嶋さんが俺を見下ろして言った。
「昼にまた迎えに来る、それまで頑張れよ」
 浮かべる笑みが意味深げに見えて、不思議に思いながら俺は曖昧に返事をした。


 おかしい。
 一年生の校舎に入っても、みんなが俺を見てくる。あの視線は中嶋さんじゃなかったのか?
 しかも、皆が俺を見て笑っているように見える。その視線に耐えられなくなって、俺は自分のクラスまで走って前のドアから入った。入った瞬間、誰かが「伊藤だ」と叫んで、殆どがそろっていた皆全員が俺を見て歓声を上げた。いろんな場所から「おめでとう」という声が聞こえてくる。
拍手まで沸き起こりはじめて、俺はわけがわからずただ黒板の前で立ちすくんだまま動けなかった。ドアと廊下沿いの窓からも他のクラスの生徒が覗いてきて、大騒ぎになる。何故か俺がその中心にいるのはもう気のせいじゃない。しかも、その歓声を俺は以前どこかで聞いたような気がする。
「やるなぁ伊藤!! あそこまで堂々とやられたら何も言えねぇよ、ほんと!!」
「かっこよかったよ、伊藤君!!」
「なんで教えてくれなかったんだ?」
 意味のわからない言葉を次々と叫ばれて、一体何を言っているのか聞こうとした時、チャイムが鳴ってやっと騒ぎが収まってくれて、俺は固まった足を必死で動かして自分の席に座った。通りすがりに背中を叩いてきた前の席の友人に、肩を叩いて振りむかせて恐る恐る尋ねてみる。
「……俺、俺……何かした……?」
「おいおい、あれだけのことやらかしておいて、何かしたはないだろ」
「あの、俺……何も身に覚えがないんだけど……」
 友人は不思議そうな顔をしたあと、含み笑いを浮かべて言った。
「お前、生徒会の演説の時途中で抜け出しただろ? あの後中嶋さんが言いたいことがあるから昼の放送を聞けって言ったから、みんな何だろうって言ってたんだ。そしたら昼休みの放送でいきなり! 中嶋さんと伊藤との電撃恋愛発言!! あれはすごかったよ、お前もグルだったんだな、始めから計画してたんだろ? 伊藤と中嶋さんがそういう関係だったとはなぁ〜」
 先生が教室に入ってきて皆が起立しても、俺は立ち上がるどころか凍りついて動けず、一限目の授業が終わるまで、すべての思考が停止してしまっていた。
 それから三回、授業の休み時間になると群がって襲い掛かる人達から逃げるため、俺はトイレに逃げ込んでいた。どこにいても誰かが話しかけてきて、一気に人が集まってくるのだ。
 トイレの中で、俺は必死に記憶をたぐりよせようとする。その時にはもう殆どの記憶は蘇っていたけれど、何故皆が俺と中嶋さんの事を知ったのか、そこが腑に落ちないのだ。中嶋さん一人だったらわかる、なのに俺も放送で好きだって話したというんだ。俺が好きだって言ったのは、あの時、機械のたくさんある部屋に閉じ込められた時しか覚えがない。だけどあの部屋に人は誰もいなかった。
 でも、あの部屋を出たら、たくさんの人がいた。そして中嶋さんは……皆が見ている前で俺を抱き上げてキスしたんだ。その時の恥ずかしさを思い出して顔が赤くなってくる。
 ……そうだ、あの部屋にもう一度行けば何かわかるかもしれない。多分あの部屋は特別教室のある校舎だ。俺はトイレから出てその校舎に向かった。
 昨日、あの部屋で窓から見えた景色から、だいたいの場所はわかる。この校舎にも生徒はいて俺を見てくるけれど、一年生の校舎よりはましだった。階段を一階分上って左に曲がったその行き止まりの奥にあるドア。
 ここだ。この部屋だった。俺はドアの上にかけられたプレートを見た。
『放送室』
 その文字を見たとき……すべての謎が解けていく。
 昨日俺が寝かされていた場所は放送室だった。だから密封されたような部屋だったんだ。あの機械は放送するためのもので、そして中嶋さんは俺達の会話を全校舎に流した。
 いつから? そうだ、中嶋さんが一度俺を置いて出て行った時からだ。スイッチか何かを付けに行ってた。そして、戻ってきた時の誘導尋問のような問いかけと中嶋さんの告白は、皆に聞かせるためだったんだ。今まで山のように浴びてきた視線の意味がわかって、俺は顔を真っ赤にして叫んだ。
「そんなことしでかしたら、注目されるに決まってるじゃないか……!! なんてことしたんだよ……中嶋さん!!」
 俺は中嶋さんにまんまとはめられたんだ。


 昼休みのチャイムが鳴り、皆がそれぞれ食堂に行ったり弁当を広げる。俺はまだどこで食べようかと悩んでいた。人が来ない所じゃないと、また囲まれてしまうからだ。
 その時クラス中がざわきはじめ、すぐに沈黙した。
 見上げると、教室の前方のドアのところに長身の三年生が立っていて驚いて立ち上がる。
「な、中嶋さんっ!!」
 一年生の校舎に三年生がやって来るのがめずらしいのはもちろん、それが話題の中嶋さんとなると、皆が注目するのも無理はない。学年以上の差を感じる貫禄と上背、稀に見る美貌と他人を圧倒させずにおかない独特の風情は、教室の雰囲気も一変させるようだった。女の子達の溜息が漏れる中、慌ててドアの向こうに消えた中嶋さんを追った。
 周囲の視線に晒されながら俺達は食堂で昼食をとり、中嶋さんに誘われて校庭の奥にある丘に向かった。丘の上には数人の学生が昼食をとっていたりくつろいでいたけれど、俺達の姿を見たとたん蜘蛛の子を散らすように全員逃げ去っていく。
 いたたまれない気持ちのまま座って木にもたれかかると、俺の左横で中嶋さんも腰を下ろす。やっと二人きりになれたところで俺は息を深くすってから、叫んだ。
「どうして、どうしてこんなことをしたんですか? あんな、あんな恥ずかしいこと……っ!!」
「……ここにいれるのはあと三日だ。もっと味あわせてやりたかったが」
 中嶋さんは平然として、またわけわからないことを言ってくる。
「俺の質問に答えてませんよ!!」
 憤慨している俺を一向に相手にしないどころか、口の端を歪めて楽しそうに俺を見つめている。
「……皆に自慢したか?」
「何を言ってるんですか、そんなのできるわけ……っ」
 からかいの言葉の奥にふと何かひっかかるものを感じて、俺はもう一度中嶋さんの顔を仰ぎ見た。
「してみたかったんじゃないのか? 内緒にせず堂々と付き合いたかったんだろう、啓太は」
「中嶋さん、それ、一体いつから……」
 どう聞けばいいのかわからなくて、そのまま黙り込んで呆然としている俺の頭に中嶋さんの右手が伸びてきて、俺の髪をくしゃくしゃと混ぜた。
「二人きりになる必要があったからな、計画を練ったのは二ヶ月程前だ」
 ちょっと待って、それって、この高校にも来る前で、脅迫状も届く前からってことじゃないか。そんな前から計画を練ったって、一体どういうことなんだ?
 ……つまり、つまり、二人きりになるためこの高校に来る方法を考えていて、脅迫状が届いて……。
「……中嶋さん!?」
 思い当たった考えが自分でも信じられなくて、まさか、と中嶋さんを見ると、得意げな顔が浮かんだあと、真剣な目をして俺を見返す。
「生憎BL学園では無理だ、憎まれ役の俺にはいつも危険が付きまとってくる。俺が啓太とつきあっている事がバレれば、また馬鹿な輩がお前を利用するかもしれないからな。もうお前を危険に晒すわけにはいかない」
 ふ、と少しだけ悲しそうに笑った。
「期間限定だから楽しんでおけよ。これが最後だ」


 ――俺が以前、王様の前で言ったこと。
『前の学校の友達がね、彼女が出来てから毎日のようにメールでのろけ話を聞かせるんですよ、学校で二人でどうしたとかああしたとか……、もう俺羨ましくって……』
 友達のメールのことがきっかけで、俺の中で少しづつ不満が溜まっていくのを中嶋さんは知っていた。そんな俺の思いは鬱陶しがられると思っていた俺は、聞かれてしまったその日から気持ちをひた隠しにしてきた。
 だけど、中嶋さんは俺の気持を無視しているわけじゃなかった。それどころか。
 この緑ヶ丘高校で、BL学園ではできなかった俺のちっぽけな夢を叶えさせようとした。中嶋さんのしていたことは、ただ俺とこうして堂々と一緒にいられるようにする為だった。
 BL学園と同じ、ただの先輩と後輩としてではなく、付き合っている恋人として――
 胸がいっぱいになって、何か言わなくちゃいけないのに言葉が出てこなかった。その代わり涙が流れてきて、熱いものが更に胸を満たしていき、自然と笑みが零れていた。
 こんなに俺のことを考えてくれていた中嶋さんを誤解していたなんて。
 謝りたいのとお礼を言いたいので必死に言葉を口にしようとしていると、中嶋さんがいきなり俺の膝の上に頭を乗せて寝転がり、驚く俺に「疲れたから寝る」と言って目を閉じた。
 学校の中、しかも遠巻きに皆が見ている前で、中嶋さんに膝枕をしているなんて信じられない事だった。涙を拭きながら中嶋さんに笑いかける。
 中嶋さんが俺に本物の夢を見させてくれている。
 ……もう二度とできないことだから。
 それなら、この幸せを堪能しておこう。太腿に乗せられた髪に右手を添えながら……そう思った。


 それから三日間、中嶋さんは本当に学校での朝昼晩と、授業以外の時間を俺と一緒に過ごしてくれた。夜は日が暮れるまで一緒にいて、帰りは一緒に帰れなかったけれど、ちゃんと朝には迎えに来てくれて、もうそれだけで俺には十分だった。
 一年生の校舎に迎えにくる姿を一目見ようと、昼休みには俺のクラスに人が群がり、その中を平然とした顔で中嶋さんが歩いてくる。帰宅時間になると、少しでも遅くなっただけでやってきて、「遅い」と大きな声で怒られて皆に笑われたりした。相変わらず俺への興味の目は収まらないけれど、俺は胸を張って堂々と歩くようになった。
 望んでいたおつきあいとは、目立ちすぎるという意味で大分かけ離れていたけれど、俺にはもったいないぐらいの中嶋さんからの贈り物を、心ゆくまで楽しもうと思っていた。


 金曜日、中嶋さんが言っていた期限の三日目の放課後。中嶋さんのクラスに出向いて誰もいなくなった教室で二人、窓際の机に前後で座って話をしていた時、気になっていた事を聞いてみた。
「空手部に入ったのはどうしてだったんですか? BL学園にも空手部はあるのに……」
「なんだ、啓太はまだわからないのか」
 意外そうな顔をした後、いじわるそうな笑みを浮かべて言った。
「やるからにはこのデカイ学校で一番目立たなければおもしろくないだろう?」
 開いた口が塞がらない。つまり、空手部に入ったのも自分が目立つ存在になる為に計画していたことだったんだ。脚光を浴びる為に実際に行動にうつしてすべてを成功させるなんて、よっぽど自分に自信がないと出来ない事だ。
 そして実際に中嶋さんはこの高校で一番の有名人になってしまった。
「おかげで楽しめた、らしくないこともしたがな」
「女の子を振ったり、生徒会長に立候補したり、俺に告白したり、ですか?」
 眼鏡のブリッジを右手で上げて俺を見つめたけれど、中嶋さんはそれ以上答えてくれず窓の外の景色を眺めて、俺も同じ所を見つめた。夕日が俺達を照らし始めている。
「……俺がここに来るのは今日限りだ」
「え……!」
 いきなり告げられて中嶋さんの顔を見た。中嶋さんの言葉に俺は入っていない。三日間だけとは聞いていたけれど、てっきり俺も一緒なんだと思っていたのだ。
「カタをつけたら迎えに来る。もし一週間後の朝俺が戻らなかったらセンサーを押せ。啓太はBL学園に戻るんだ」
「そんな……っ!! 俺も、俺も行きます……っ」
 BL学園の最深部の秘密情報を盗んだのも、嘘の脅迫状を送ったのも中嶋さんだった。俺が幼い頃ウイルスに感染したことを知っていたのは、俺が中嶋さんに話した事があるからだった。すべて、中嶋さんがBL学園を二人でしばらく抜け出す為に企んだ計画だった。それをどう片付けようとしているのか俺にはわからない。和希達は必死になって犯人を捜しているんだ。もし、もし犯人が中嶋さんだってことがバレたら、退学だけではきっと済まされない。
「俺がみんなに事情を話します、だから……っ!」
「これは俺の問題だ、口を出すな」
 容赦なく中嶋さんは俺を遮った。これ以上言っても俺の頼みを聞いてくれることは絶対にないだろう、どんな時もいつもそうだ。中嶋さんはすべて一人で背負ってしまう、放っておかれる俺の寂しさに気が付きもしないで。もし中嶋さんがここに迎えに来ず、そのままBL学園に戻ってこなかったら、俺はどうすればいいんだよ……。
 今この時間が、中嶋さんと過ごす最後になるかもしれない。言い知れない恐怖を感じてそれを頭から振り払おうと首を振った。このままで終わりたくない、絶対に。
 俺は勇気を振り絞って、椅子から腰を浮かせて後ろの席に座る中嶋さんにキスをした。
「じゃあ、じゃあ……、今晩だけ、俺と一緒にいて下さい……っ!」
 不安を少しでも忘れていられるよう、中嶋さんを身体に刻み付けておきたい。
 中嶋さんは最後まで俺のわがままを聞いてくれた。


 この高校に来てから、初めて一緒に過ごす夜。
 俺は何度も激しく抱かれ、何度気を失っても中嶋さんは止めなかった。様々な格好で穿られ、貫かれながら俺は泣き叫んだ。もう許して欲しいと懇願しても、火に油を注ぐように更に激しさが増した。

 土曜日の朝目が覚めた時、ベッドの横に中嶋さんはいなかった。中嶋さんがいた場所のシーツに触れると、まだぬくもりがのこっているような気がした。


 中嶋さんがいなくなった生活は、ゆっくりとした時間の早さで進んでいくようだった。
 月曜日から中嶋さんが突然姿を消して学校中が騒いだけれど、俺が風邪をひいたんだって言うと皆が納得した。明日の金曜日は生徒会執行部の役員を決める投票日で、立候補者の中にはもう現れないだろう中嶋さんの名前があったけれど、そのままにしておいた。
 その日が中嶋さんが言っていた、約束の金曜日。
 先週別れた時から中嶋さんの事が頭から離れることはない。不安と心配で眠れず、ふと気を抜くと身体が細かく震えてしまっているのに気付く。
 中嶋さんの為に何も手伝えなかったことを後悔していた。断られたからってどうして俺はすぐに引き下がったんだ、ここにいる俺も何かできたかもしれないのに。どこかで中嶋さんがつらい思いをしてるんじゃないかと思うと、俺一人眠る気持になどなれるわけがない。
「寂しいね、中嶋さんが来ないと」
 休み時間、中嶋さんの事で騒いでいたクラスメイトの女の子が、溜息をついていた俺に話しかけてくる。中嶋さんのことが心配で俺の様子がおかしいと皆思っているようだった。
「大丈夫だよ、すぐ元気になるって!」
「……うん、そうだね」
 俺が笑いかけると女の子はうれしそうに俺の方に顔を乗り出してきた。
「まさか伊藤君が中嶋さんと付き合ってたなんて、ほんとにびっくりしたんだからね。でもね、伊藤君でほんっとよかった」
「どうして?」
「……他の女の子にとられるよりマシだもん! いいよな〜羨ましいよ、堂々といちゃついて二人の世界作ってるんだもん」
 二人の世界ってなんだろうと思いながら、頭をかいて曖昧に笑って流すと、女の子はいきなり不機嫌そうな顔で睨みつけてくる。
「なによ、にやけちゃってさ〜、幸せそうな顔しちゃって」
「……うん、幸せだよ」
 いきなりげんこつが飛んできて、「ちょっとは謙遜しろ」と怒鳴られた。殴られた頭は痛かったけれどなんとなく気分がいい。
 一ヶ月と少し過ごしたこの高校とももうすぐお別れだ。少しの間しかいなかったのに、そう思うと寂しさが募った。
 だって、ここは中嶋さんと二人だけの思い出の学校になってしまったから。


 金曜日の朝、俺は一睡もせずに中嶋さんが迎えに来るのを部屋を出るギリギリの時間まで待ち続けた。だけどチャイムは一度も鳴らず、誰も現れなかった。急いでマンションを出て学校に向かう。もしかしたら先に学校に向かったのかもしれない。
 門をくぐり、一年生の校舎に向かって走っていき、まず自分の教室に入って見渡した。あと数分で始業のベルが鳴るのに、教室にいる人はまばらだった。息を切らしている俺の肩を後ろから友人が叩いた。
「伊藤、一緒に行くか?」
「えっ?」
「体育館で投票だろ、もうみんな行ってるぜ」
 そういえば今日は生徒会執行部を決める投票日だった。
 生徒全員が体育館にある投票箱に投票用紙を入れてくる。一時間目はそれでつぶれるって誰かが言ってた。だけど俺はそんなことをしている暇はない。後でいくからと断って、廊下に出て次は三年生の校舎に向かった。廊下も校舎も投票に行く人と帰ってくる人で混雑している中、渡り廊下を走り抜けた。
 三年生の校舎に入って中嶋さんのクラスを覗くと、そこには投票に行こうとしている二人の男の人しかいなかった。
「あ、伊藤君おはよ、どうした?」
 もちろん俺の事は知られているので、頭を下げて中嶋さんが登校してこなかったか聞いた。
「見てないよ、今日も休みじゃないのか?」
 お礼を言ってから、もしかしたら投票に向かっているのかもしれないと思い、体育館まで行ってみることにした。通り過ぎていく人達の顔を覗き込みながら足早に体育館に向かう。体育館にはたくさんの人がステージの前に設置された投票箱の前で並んでいて、その一人一人の顔を残らず見て回った。
 だけど、どこにも中嶋さんはいなかった。来る途中で見逃してしまったのかもしれないと思い、もう一度引き返してみる。
 一年生、三年生の校舎にも、念のため二年生の校舎にも入ってすべて教室を覗いたけれど、やはり中嶋さんの姿はなかった。空手部の部室と練習場にも行ってみたけれど、練習場にも鍵が掛かっていて誰もいないようだった。
 あと、後探し忘れた場所はないか思い出そうとし、校庭にある大きな木が植えられたあの丘を思い出して行ってみた。
 人気のない校庭には、遠くからでも丘の上に誰もいないのが見える。木の後ろに隠れているのかもしれない、そう思って丘まで必死で走る。
「中嶋さん!」
 木の後ろ側を覗いたけれど……そこには誰もいなかった。俺はそのまま振り返って丘の上から校舎を見つめた。
 中嶋さん、来ているのなら早く姿を見せてよ。
 俺が探しているのをどこかで見ていて笑っているんでしょう? 来れなくなったを思わせて突然現れるつもりなんですか?
 中嶋さんに膝枕をした時のことが浮かんで、今はそんな暇などないと首を振ってそれを振り払った。
 もう一度校舎を見渡した時、ある一箇所に俺の視線は釘付けになる。
  そうだ、あそこはまだ探していない……!
 俺は全速力で駆け出した。向かうのは特別教室が入った校舎、その二階にある放送室。また何か企んでいるのかもしれない、そう思ったら俺の考えが当っているような気がしてきて思わず笑顔になってしまう。
  中嶋さんは俺に当てられてびっくりするかもしれない……!
 校舎に入り、数段飛ばしで階段を駆け上がった。左に曲がり、目的の放送室にたどり着き、そのドアの前でしばらく息を整えてからドアに手をかけた。
  鍵が開いている。そっと音をたてないようにドアを開けた。
 機械の並べられた小さな部屋には、誰もいなかった。
「中嶋さん……?」
 ガラスで仕切られたもう一つのスタジオルームに入るドアを開けると、そこは俺が閉じ込められた時とまったく同じまま、何もなかった。中嶋さんの姿もない。俺はそっとドアを閉め、機械室の窓から外を見た。
 ……目の前に突きつけられた事実を、俺は認めることができなかった。
 胸のポケットから、右手で小さなセンサーを取り出しそれをしばらく見つめてから、ゆっくりと蓋を開けた。黒いボタンがそこにはある。金曜日に来なければ、このボタンを押せと中嶋さんが言っていた。
 中嶋さんは、もうここには来ない。
 もう一度蓋を閉め、センサーを強く握り締めた拳を額に当てて俯き、こみあげてきそうになるものをこらえた。だけど震え出す喉から嗚咽が漏れて、きつく閉じた目尻から流れ落ちた。
 ボタンを押すことは、中嶋さんが学校には来ていないことを俺自身が認めることになる。
 それだけは絶対にできない、絶対に嫌だ……!


 顔を覆って泣き崩れている俺の耳に、小さな音が聞こえてきた。
  気になって耳を澄ますと、その音は徐々に大きくなっているようだ。どこかで聞いたことがあるのに、それとも少し違うような気がする。エンジン音に違いない。次第にはっきりと聞こえてきて俺は窓の外を見た。
 何も見えない。変化はないように見えるのに、音はどんどん大きくなってくる。何故か不安に駆られて放送室を出た。
 渡り廊下には、俺と同じように何事かとたくさんの生徒が窓にへばりつき騒いでいる。その時には、そのエンジン音は尋常じゃない大きさに成長していた。
 とうとうその音がみんなの叫び声をかき消す程の大きさになったとき、一人一人と生徒が校舎から校庭に出ようと走り出し、俺もみんなに続いて駆け出した。
 不気味なエンジン音はこの学校の敷地内にいる。
「おい、あれ!!」
 誰かが窓から校庭の方を指差し、皆がその先を一斉に見つめて驚きの声が上がった。
 校庭の上空、驚くほど低い場所に突然姿を現したのは、真っ黒に塗られた巨大なヘリコプターだった。時々空を飛んでいるものとは違い、テレビの中で見る軍事用のそれに酷使している。しかも、そのヘリは校庭に着陸しようとしている。
 皆が一斉に校庭へと走り出し、俺もその中にまぎれて校舎の外に出た。俺が校庭に出た時には、巨大なヘリコプターはあと数メートルで校庭の真ん中あたりに着陸する所で、ヘリが起こす突風で校庭中の砂がまきあがり、まるで砂嵐が起こっているようだった。ヘリの周りが最も茶色く煙り、遠く離れた俺達の所にまでプロペラが起こす風がやってくる。プロペラが回転する音が耳をつんざくようだ。
 ヘリがあともう少しで地面に触れようとするその時、黒い船体のドアが開いて中から一人降りてくるのが見えて、校庭に集まった生徒達がどよめいた。砂埃の中、誰かがこちらに歩いてくる。
 目をこらして誰が降りてきたのか見つめていると、ヘリコプターから離れたことで次第にその人の周りの砂嵐が弱まり始め、その形をはっきり現し始めた。
  俺達から二十メートル程離れた場所でその人物が立ち止まった時、その人物が誰かを俺ははっきり見ることができた。
 その男は上に赤い服、下には白っぽいズボンを着ている。俺は驚いて体を乗り出した。
 ……まさか、まさか……っ!!
「中嶋さんっ!?」
 俺が大声で叫ぶと、その声が聞こえた周辺の人達も気が付いて一斉に騒ぎ始めた。皆が気付けなかったのは、中嶋さんが紺の制服ではなく、BL学園の制服を着ていたからだった。何故それを着ているのかと皆が興奮した声で聞きあっている。
 俺は紺色の人だかりを掻き分けてその人の所へと突き進み、人の山が途切れてから一気に走り出した。一人近寄ってくる俺を中嶋さんが見つけて、こちらに向かって歩いてくる。
 十メートル程先に、懐かしい制服を着た中嶋さんが立っている。その姿はいつものその人で、俺を見つめ、得意げな顔で笑っていた。
 俺は、その身体に飛び込んでいった。
「中嶋さん、中嶋さんっ……!!」
「……遅くなってすまない」
 中嶋さんが俺を強く抱きしめ返してくれる。そのぬくもりが本当に帰ってきてくれたことを実感させて、うれしさに頬に涙が伝うのを止められなかった。
「もう、もう大丈夫なんですか? 戻ってこられたんですか?」
「ああ、うまくいった。俺が逆探知に成功して犯人の居場所を突き止めた。理事長達と一緒にそこに行って証拠の品を見つけたよ。理事長は後は警察にまかせるとの事だ」
 俺は驚いて体を離して中嶋さんを見上げた。
「……今頃、存在しない犯人を警察が追っているだろう」
「……そんな、こと……」
 できるのか、と聞こうとする前に中嶋さんが遮った。
「操縦士が待ってる、帰るぞ」
「中嶋さん!!」
 大声で叫ぶと、ヘリコプターの方に向かい歩き始めるその人が振り返る。
 ありったけの力で、中嶋さんに向かって飛んだ。大きな体が俺を捕らえ、きつく抱きしめる。
 そう、放送室で、みんなの前で中嶋さんが抱き上げた時のように。
「……愛してます、中嶋さん」
 俺の言葉に中嶋さんは少し驚いてから、すぐに口元にいつもの笑みを浮かべて、俺はその唇に自分のそれを押し付けた。
 皆に聞かせる為なんかじゃない。

 俺の言葉は……中嶋さん、ただ一人の為に。











 数日後のBL学園。

 BL学園での放課後、俺はいつものように学生会室のドアを開けた。
 そこにはいつものように、中嶋さんが難しい顔をして机の上を整理している。ここに来れば中嶋さんに会える、その幸せをじんわり感じていると、「早く手伝え」と怒られて、慌てていつもの席に座った。中嶋さんがいない間に、学生会室は滅茶苦茶に荒れてしまっていた。……もちろん王様のおかげで。
 一緒になって片付けながら、俺は機会を逃していてずっと言えなかった事を言った。
「中嶋さん、いろいろ……ありがとうございました」
 動きを止めて俺を見つめると、中嶋さんが少しだけ唇をつりあげる。
「報酬は、都合の悪い事はすべて忘れること、わかったな」

 ふと、緑ヶ丘高校で金曜日行われたはずの、生徒会の投票はどうなったんだろうと思い出す。当然、BL学園の生徒だったってバレただろうから無効になっているだろうけど。
 もし中嶋さんが学校を辞めないでいたら生徒会長になっていたのか、それは永遠に謎のままになった。
 その事を中嶋さんに言ったら、興味なさげにちらりと俺を見て、すぐに散らかった書類に目を通し始めた。

 もう中嶋さんの中では過ぎ去った出来事なのかもしれないけれど、俺は悪いことも良いことも全部、覚えていようと思った。

 俺と中嶋さんの二人だけが持つ秘密。

 緑ヶ丘高校で経験した思い出を胸に、俺はいつまでも中嶋さんの側にいようと、改めてそう誓った。











end