◆肉体改造論◆

 BL学園も、秋といえば様々な行事で賑わう季節らしい。
 体育祭まであと一週間と迫り、全校生徒の殆どが放課後や休み時間に、自分の出場する種目の練習を始め出す。
 学生会では、準備の山場も越えてようやく待ち遠しい気持ちが出てきた頃だ。
 選ばれた学生ばかりが集うこの学園でも、体育祭は特別な行事らしい。というのも、お祭り好きの理事長が様々な企画やプレゼントを用意してくるので、他の学校とは一風変わったものになるのだ。
 ここでは、一学年一クラスなのでクラス対抗はできない分、紅白合戦が主体となる。クラスが半分に分かれて、各学年ごとに同じ色同志が集まり対決するのだ。
 競技は学年ごとに別れておらず、どの種目に誰を出場させるかは自由。例えば長距離走を捨てて、短距離走に三年生をぶつけて勝負をかける、遊戯系の種目は一年生全員であたる……などなど、赤組、白組各自が点を効率よく、確実に獲得する為に組全体で話し合い、采配力を競うのである。
 毎年、体育祭前になるとクラス内が二つに分裂し、当日は血を見るような争いになるらしい。
 そこまで熱心になってしまうのは、どうやら勝利した組に与えられる豪華な景品のせいなのだ。
 毎年当日の勝利組が決定するまで発表されない景品。過去には組全員に海外旅行がプレゼントされたり、一年分の学食がタダになるなど、そこはやはり天下のBL学園、驚くべきものばかりなのである。
 そんな話を聞いてしまったら、俺も当然夢中になってしまうわけで。
「今年はどうやら俺たち赤組の勝利だな」
 足を机に放り上げて椅子にどっかりと座っている王様が、同じく椅子に座っているけれどせわしなくパソコンのキーを叩き続けている中嶋さんに言う。
「お前がいる限り優勝はありえんな」
「なんで俺なんだよ。どの種目でも一位確実なんだぜ」
「個人は関係ない、うまく采配した方が勝ちなんだ。言っておくが俺の組は一度も負けたことはない。去年はお前と同じ組だったが、今年は白が勝たせてもらう」
 会長と副会長でさえ、体育祭のことになると会話に熱が入るんだよな。俺は中嶋さんの正面の席で体育祭で使うハチマキを整理しながらちょっと笑ってしまう。
「で、そっちの百メートル走の出場者は誰なんだ?」
「教えてやる理由はない」
 毎年盛り上がるメインとなる種目の出場者は当日まで秘密にするらしく、おたがいなんとかして知ろうと探りを入れあうらしい。この二人のように。腹の探り合いというやつだ。
 個人種目は全員が必ず一種目に出場し、多い人で四種目までと決められていて、あとは綱引きなどの全員が出場するものがある。
 王様は確実に四種目出場するだろうから、目の前の二人は四種目出場組だ。運良く中嶋さんの組と同じ白組になった俺は、もちろん中嶋さんが出場する種目は知っている。俺はといえば、運動音痴というわけではないけれど一種目。体育会系のすごい選手がそろっているこの学園では、情けなくも足手まとい組の一人だったりするのである。
「啓太は二人三脚だったよな? 運動神経より、相手との相性が問題だな」
「そうですね」
 ペアが何組も走る二人三脚は、出場者を隠してもあまり意味がないので公表しても問題はないんだけれど、実を言うと今回の白組は出場者全員が一年生。そう、俺は白組「捨てた種目」の一つの二人三脚に出場するんだ。
 中嶋さんは、短距離と長距離ばかり三種目。運動神経抜群の王様とバッティングしない限り、一位は確実な数少ない選手の一人、そして白組の団長でもある。采配もすべて中嶋さんを中心にして行われているのだ。
 中嶋さんとぶつかる赤組の団長は、やはり唯一対抗できる王様。
「今年はみてろよ、大差をつけて勝ってやる」
「それはこっちの台詞だ」
 どこまでも強気な王様と、あくまで冷静な中嶋さん。二人の口元は笑っているけれど、その視線は挑発的でギラギラしていて油断を許さない。ぶる、と背筋が寒くなったのは夜になって寒くなってきたからじゃないはずだ。
 実は、影では因縁の対決、過去の伝説の大喧嘩の再来と言われている体育祭。初めてながら、過去にない白熱した戦いになりそうな予感がする。
 白組の為にも、中嶋さんの為にも俺も勝たなくちゃいけないんだけど、負けてもいい種目な分、プレッシャーは実はそんなにないのだ。だから半分は傍観者の気分だったりする。


 その次の日の夜、寮の部屋でくつろいでいるとドアがノックされて椅子から立ち上がった。
 慌ててドアを開けに走ってしまうのは、いつもの和希の叩き方じゃなくて、中嶋さんのものだったからだ。ドアを開けると、やはりラフな白いシャツを着た中嶋さんが立っている。最近体育祭の準備で忙しく、ずっと中嶋さんがやってくることがなかったからとてもうれしい。
 だけど、部屋の中に招き入れると、深刻な顔をしているのに気が付く。
「どうしたんですか?」
「重大なことがわかった」
「なんですか、一体……」
「二人三脚に、赤組は全員三年生を投入してくるらしい」
「……ええっ!」
 座りもせず唐突に告げられた言葉に俺は驚いて中嶋さんを見上げる。
「丹羽のあの自信ありげな顔が解せなくて探りを入れていた。二人三脚は半分が勝てば十分だと思っていたが、全敗するとなると勝敗に大きく響いてくる。毎年おたがいが力を入れない種目だと思い込んでいるからな、こちらは盲点をつかれた形だ」
「そ、そんな……っ、もう今さらメンバーを変えられないんじゃあ……」
 唖然としていると、中嶋さんはポケットから小さな布の塊を取り出す。それは俺が整理をしていたハチマキだ。
「……いや、対処方法はもう考えた」
「え?」
「数人メンバーを入れ替えた。確実に半分は勝てるようにな。それで啓太、お前は俺と組むことになった」
「…………へ?」
 俺は発せられた言葉が理解できず立ち尽くしているのに、中嶋さんはドアから出て行こうとする。
「今日から毎日練習しに行くぞ、誰にも見られない場所でな。俺がお前と組むことは絶対に誰にも漏らすな」
 ドアの開く音でようやく現実に戻ってきた俺は、慌てて振り返って叫んでしまう。
「中嶋さん、ちょ、ちょっと待って……っ!」
 振り返り、ちらりと俺を見下ろす視線は有無をいわさない氷の矢のようだ。
「早くこい。俺と組むからには一位以外はないと思え」


 三バカトリオに襲われそうになった俺を、中嶋さんが助けてくれた校舎の裏。あの日のように月の光が煌々とあたりを照らし、足元は少し見づらいけれど走れないほどじゃない。
 あの日のことを思い出し、赤くなっていたとしても多分中嶋さんには見えないだろう。だけど、今の俺の顔色は、きっと月の光のせいでなく真っ青か真っ白になっているはずだ。
「…………お前、もしかして相当の運動音痴なのか?」
 薄暗い場所で、中嶋さんと俺はハチマキで足を結び合っている。傍からみれば滑稽な光景だけれど、この時期はいたるところで秘密訓練が行われているそうだ。その仲間にまさか俺も入ってしまうとはつい先ほどもまで思いもしなかった。
 肩を組み合っているのに、身体の左側に中嶋さんの身体が触れているのに、発する冷たいオーラが恐ろしくて足はますます動かない。
 中嶋さんと俺の二人三脚は、まだ二十歩も進むことができないでいる。その原因はすべて俺のせい、中嶋さんのタイミングと歩調に全く合わせられないからだ。もちろん中嶋さんは俺に合わせる気はない、そうすれば確実に負けてしまうので当然だ。つまり俺が合わせなければならないわけで。
 まともに前進できない状態に、中嶋さんがとうとう眉を寄せてイラつき始め、ますます俺は冷や汗をかきながら何度も姿勢を整えては進もうと必死になる。
 つきあっている二人なら、息もぴったり揃うんじゃないかと少しだけ期待していたけれど、そんな自信はあっけなく足元から崩れ落ちてしまった。元から俺達はそんな甘い関係じゃないんだから当然だ。
「わっ!」
 また中嶋さんを押すようにして前に倒れそうになり中嶋さんに支えられる。
「す、すいません……っ」
 大きな溜息をついて、中嶋さんが俺を見下ろす。
「……俺に合わせる前に自分で走る努力もしろ」
 そんなこといったって、中嶋さんの足の筋力も、コンパスの長さも全然違うのに無理に決まってるじゃないか、そう抗議したいけれど、怖くて何も言い返せない。それに、俺も少しばかりはプライドだってあるんだ。
「体格が違うと言いたげだな、啓太」
 思っていることを指摘されて目を逸らす。どうやら考えていることが顔に出ていたらしい。
「お前も同じ男だろう。屈辱だと思うなら少しは努力で克服してみろ」
 何も言い返せす、その代わり歯を食いしばる。
 そうだよ、このまままともに走れなければ、中嶋さんに迷惑をかける前に、男として最低じゃないか。体格と実力のせいにしたままじゃあ、絶対に走れない。
 俺にもできて、唯一残されているのは、努力するという一文字しかないわけで。
「……俺、頑張ります。中嶋さんと一緒に一位になれるように」
 決意表明をする俺の頭を、しばらくしてから中嶋さんの大きな手がくしゃくしゃと撫でてびっくりして見上げると、頼もしい先輩の表情がある。
 何も言ってくれないけれど、たくさんの一年生の中から俺を選んだのは信頼してくれたからだ。俺となら一位になれるって、そう思ってくれたからなんだ。その期待に俺は答えなくちゃいけない。それが男としての勤めだし、言えないけれど「恋人」としての責任ではないだろうか。
 絶対に、負けるわけにはいかないんだ。


 それから俺は、まず自分の筋肉増強のために早朝マラソンを始めることにした。二人三脚はまず足の筋力の増強が重要だ。特に中嶋さんは足の力は尋常じゃないので少しの努力ぐらいでは到底追いつけない。ここで登場するのがプロテイン。体育会系の学生が殆ど使っているといわれる筋肉増強の粉薬のようなもので、これを水などに溶かして飲んで筋力トレーニングをすると、通常の数倍の筋肉が得られるんだ。早い効果が必要な俺には絶対に必要だ。
 コンパスの広さについていく為、大股で歩く努力も必要かもしれないと、普段でもなるべく歩幅を大きくとって歩くようにする。血流をよくするためと、筋肉のバランスを保つためにふくらはぎから足首にかけてテーピングも巻いておくことは欠かさない。
 夜は、体育倉庫でこっそり借りたダンベルで下半身を中心にトレーニングを欠かさず続けた。
 こんなに運動をしたのは初めてかもしれない。
 それから三日後の特訓では、少しづつの努力が実になってきたおかげで、五十メートルを確実に走ることができるようになった。あまり息も荒れないようになったし、こけるようなこともなくなった。
「まずまずの成果だな。見込みはありそうだ」
 俺の成長に中嶋さんが笑いかける。
 安易かもしれないけど、このまま練習を続ければ、俺でもなんとかなるかもしれない。


 だけど、体育祭を明日に控えた土曜日の予行演習の日、思わぬアクシデントが発生した。
 運動場にあらゆる荷物を運び出し、執行部本部の事務所のテントを貼ったり、俺は自分の担当の仕事をこなしていた。準備をするのにはジャージが便利だったから着てきたんだけど、他のメンバーも殆ど同じことを考えていたらしく、体操着や上着だけジャージの人もいる。
 マイクのチェックやライン引き、たくさんの生徒がせわしなく働いている。
 椅子を並べている中、俺は運動場の中心あたりで目立つ二人組を発見した。何か二人で紙を見てはあらゆる人に指示を出している、ネクタイと同じ青いジャージ。ジャージの色は、ネクタイの色と同じに統一されていて、俺は緑色、三年生は濃紺。シンプルなジャージは有名なメーカーの特注ものらしく、学校のジャージというよりスポーツ選手のイメージのシャープなラインだ。
 だからって誰でも似合うものでもないし、俺はといえば、どこをどう見てもただの体操着だ。スポーツ選手には絶対に見えないはずだ。
 なのに、あの人の貫禄は一体なんなんだろう。俺はパイプ椅子を持ったまま呆然と立ちつくて見つめてしまう。
 体育の授業が一緒にならない限り、体育祭でしか見られないジャージ姿。背と肩幅がなければ、ついでに足だって長くなければあそこまで似合ったりしないと思う。
 一目見ただけで、運動神経は抜群だと確信してしまう、そして現実にそうなんだ。
 椅子を足の上に落としてしまい、大声を上げてしゃがみこんで足を撫でていると、大きな影が俺の身体を覆い、仰いで見ると目の前に中嶋さんが立っている。
「大丈夫か」
「あ、あの、はい……っ、大丈夫ですっ」
 慌てて立ち上がると、中嶋さんが倒れた椅子を軽々と持ち上げる。
「執行部の椅子か?」
「すいません、俺持ちますっ」
 取りかえそうとする俺を無視して中嶋さんは歩き出してしまい、俺は後ろを慌てて追いかける。広い背中。ジャージが細く見せている分、背がとても高く見える。頭が小さく、均整のとれた体格。中嶋さんのストイックで一見真面目に見える雰囲気は、体操着のようなラフな格好ではあまり似合わないと思っていたけれど、そんなことは全然なかった。むしろきつさが和らいで、その分野性的な部分が際立っているように感じるんだ。
 どうしよう、今さらなのに、胸が高まってくる。
「おい、啓太」
 いつのまにか椅子を置き、中嶋さんがこちらを向いている。
「は、はいっ」
「準備でバテるなよ、今夜が最後の練習だからな」
「はい、わかってます!」
 俺の大きな返事に満足したのか、中嶋さんがグラウンドに戻っていく。
 そうだ、今日の夜が最後の練習なんだ。
 その言葉を胸に刻み、絶対に勝つんだと気合を入れようとしたとき、ふとあることに思い当たる。
 ……二人三脚って、体操着でするんだよな?
 つまりは、あのジャージ姿か、いや違う、ジャージを脱いだ体操着で、半パンで走るってことだ。ジャージ姿の中嶋さんってだけで緊張しているのに、二人三脚で密着なんてしたら、まともに走ることが出来ないんじゃないだろうか。
 まさか、とも思う。体育祭という場で、戦いの場で一人煩悩に悩まされることなんてない、と思う。だけど万が一ということがあるはすだ。いや、俺の場合はもしかしたら、が十分ありえるんだ。
「中嶋さん!!」
 俺は大声で呼びながらグラウンドへと走った。
 まさかという事態にも対処できるよう、訓練はきっと必要だ。


 最後の夜、校舎の裏にいつもように待ち合わせる。
 今日の中嶋さんは怒っているような微妙な表情で俺を見つめている。
「……本番らしくというのもわかるが、こんな時間に……」
「だって、服が違うと足が遅くなるかもしれないじゃないですか」
 俺の嘘の説明にやはり腑に落ちないらしい。
 中嶋さんにジャージを着てもらって、俺の免疫力のトレーニングをする必要があるんだ。中嶋さんがためらおうが、恥じらおうがこの際我慢してもらわなければ。
 お願いしてよかった。やっぱり改めて中嶋さんを見ても、まだ慣れなくて緊張してしまう。本当は体操着にもなってほしかったけれどそれはさすがに言えなかった。
 俺の左足首と、中嶋さんの右足首を中嶋さんがハチマキで結ぶ。
「お前、足にテーピングしてるのか」
 ジャージから覗いた白いものに気が付いたらしい。
「はい、血流がよくなるって聞いたから」
「いい心がけだな」
 俺の身体は、確実に筋肉が付き始めているし、中嶋さんの足の速さになんとかついていけるようになっている。だから、こんな不安など走っていればきっと克服できるはずだ。それぐらいの練習はしてきたはずだ。
 何度か走り終えて、中嶋さんが俺の頭を撫でて笑いかける。
「なんとかなりそうだな」
 そうだ、走っていれば大丈夫。たとえ緊張していても、走っていれば中嶋さんは左側にいて見えないんだ。意識しなければ忘れていられる。
 だけど、最後に。絶対に大丈夫だという自信をつけるために、俺は中嶋さんの首に手を回し、正面から思い切り抱きついた。ひきはがそうと中嶋さんが動くより前に訴える。
「何もしません、しませんからこのままじっとしていて下さい」
 肌に触れても、絶対に何も反応しないという確信が必要だと思ったから、これが最後の試練。
 広い胸の温かさに包まれていると、中嶋さんに触れたのがもう随分前なんだと気が付いた。
 そういえば、全然セックスをしていなかった。そのことも忘れるぐらいに体育祭に夢中になってたんだ。毎日夜に会っていたというのに、二人の間に色気はひとつもなかったなんて。中嶋さんがその気になれば、俺はすぐに流されていたと思うけれど。
 息苦しいほどに心臓がドキドキしてる。だけど、我慢できないほどじゃない。これなら本番でヘマをやらかすことはないはずだ。
 絶対に頑張らなければならない。ここまで努力したんだ、結果を出さなきゃ男じゃない。
 中嶋さんと一緒に、一位のロープを必ず切ってみせる。


 そして、体育祭当日。
 開始の合図を告げる派手な花火が上がり、グラウンドを囲む生徒達が雄たけびを上げる。風も弱く、絶好の体育祭日和だ。
 前から見て右側の陣、白組の席と執行部のテントを行ったりきたりする俺は、様々な種目が終わる度にグラウンドに駆け出しては、ラインを修正したり次の種目の準備と片付けを繰り返している。忙しく駈けずり回っているせいで、紅白の応援にも殆ど参加できない状態だ。
 五種目が終了した時点で、勝っているのは白組。
 二人三脚は、午後最後の種目の赤白対抗リレーの前になる。はじめは午前中に予定されていたのが、紅白共注目する種目だとおたがいが感づいたらしく、学生会が順番を変更したのだった。
 そのせいで、俺の緊張はお昼を過ぎても続いてしまうというのがつらい。いつまでも気持ちが落ち着かないんだ。
 執行部のテントの下で、怪我をした上級生に絆創膏を貼っていると、大きな歓声が響き渡る。見ると王様が百メートル走で一位を独走しロープを切ったところで、手を上げてみんなの声援に答えているところで。俺は心の中で溜息をつく。
 また、中嶋さんが走ってるところ見れなかったな……。
 忙しく動いているせいで、俺はまだ一度も中嶋さんの姿を見れていなかった。本当は声援を送りたい。中嶋さんが出る一番はじめの種目、三百メートル走は一位だったらしい。俺も走っているところが見たかったのに。
 どうやら、この忙しさだと二人三脚の前にある千メートル走も見れそうにない。あとは、俺と出る二人三脚と、ラストのリレーのアンカー。このアンカーは各組の団長と決まっているから王様との一騎打ちだ。
 そういえば、千メートル走の直後の二人三脚で、中嶋さんは大丈夫なんだろうか。多分中嶋さんのことだ、そのことは十分承知しているに違いないだろうけど。


 緊張したまま悶々と昼休みを終え、次の種目が千メートル走というところで、俺はテントの中で立ち上がり、足を動かして準備運動を始める。動いていなければ緊張してどうにも落ち着かないというのも本音なんだけど。
「よ、どうだ調子は」
 体操着と赤いハチマキという姿の王様が近づいてくる。
「はい、もうあとは頑張るしか……」
「今年の赤組は気合入ってるからな、せいぜい頑張れよ。走りならヒデは俺には勝てないことを証明してやる」
「リレーですか?」
「いや、二人三脚もだよ。……俺も選手だぜ、啓太」
「えぇっ!?」
 驚いて足踏みも止まってしまう。
 まさか、王様までが二人三脚に参加するとは思っていなかった。赤組は本気で全勝するつもりだったんだ。
 王様の勝ち誇った笑みは、もう勝利を勝ち取ったような自信に満ち溢れている。
「中嶋さんは、それを知ってるんですか……っ」
「さっき言ったぜ。いい顔して睨んできやがった、気合は十分だな」
 とたん、俺は腰から力が抜けてへたりこみそうになってしまう。中嶋さんの恐ろしいまでの気迫が伝わってきたような気がしたんだ。
 どうしよう、他の人ならまだしも、王様を相手に俺達は勝つことができるのだろうか。緊張で心臓が締め付けられそうだ。
 王様が去っていったと同時に、俺は人の字を手の平に書いて何度も飲み込み続ける。振って沸いた新しい緊張の種に身体がおいつかず震えだしている。
 一度頭を冷やそう。落ち着かなければと水のみ場に駆け出し、冷たい水で顔を洗う。
 今さら緊張したところで仕方がない。相手が誰であれ力を出し切ればいい。練習したとおりに走ればいいんだ。
 できる限りの努力はしたんだ、もっと自信を持たなくちゃだめだ。
 必死の気合でもって平常心に戻しテント下に戻ると、いつの間にか中嶋さんが出場した千メートル走は終わってしまったらしく、十分の休憩の後はもう二人三脚になっていた。
 それでも、俺はもっと気持ちを落ち着けてから入場口に行こうと一度椅子に座ると、がらんとした執行部席の数列前の椅子に、大きな背中をした生徒が座って屈みこんでいるを見つける。体育祭の執行部じゃない。
 どうやら靴紐を直しているらしい。上半身を起こし、何故か振り向いて俺の方を見る。
 ドキ、とした。
 その視線があまりにも鋭く、鮮烈だったからだ。切れ長の目に表情はないのに、色が深い。綺麗だけれど、どこか退廃めいた雰囲気さえ漂わせている。
 こんな人が学園にいただろうか。顔の造形はどこかで見たことがあるのに思い出せない。
 息をつめて見とれていると、その人は顔を逸らし立ち上がる。少し汚れた白い体操着と濃紺のハーフパンツがよく似合う後姿。
 すると、その人は俺の方に身体を向けて、大きなリーチで一気に椅子に座る俺の目の前に立ちはだかる。眼前には筋肉で覆われた太い太腿があり、ぼうっとそこばかりを見つめていると、頭上でよく聞く声が降りてきた。
「入場口に行くぞ、啓太」
 口を開けたままゆっくり顔を上げると、少し息が荒いのは走ってきたばかりだからだろう。たくさんの汗が髪の毛先を濡らし、額にもうっすら汗の雫をにじませている。髪が乱れて分かれているせいで、形のよい額がすべて見える。
 よく見る顔なのに、初めて見たんだ。
 眼鏡をかけないその目は、確かに中嶋さんなのだった。
 不審そうに眉を寄せた中嶋さんが俺の目の前に手をかざす。
「……おい、大丈夫か?」
 その時背後で中嶋さんを呼ぶ声がして、振り向いている間、俺はまじまじと中嶋さんを見てしまった。見てしまったんだ。
 汗と埃で汚れて、上半身の身体のラインがはっきりとわかる体操着。ずばぬけた脚力を誇る足。走ったばかりで熱気を帯びた身体。まだ身体で息をしているせいで大きく胸が動いている。
「あと五分で入場だ、早くしろ」
 再び視線を俺に戻し、せかされているのに俺はといえばまだ動けないまま呆然としている。
「……千メートル走、どうだったんですか……?」
「当然のことを聞くな」
 いつものように口を歪ませて笑う表情さえ、全然違って見える。
 中嶋さんが鬱陶しげに髪をかきあげた時、ハーフパンツを履いている俺の太腿に小さな汗の雫が落ちた。ゆっくりと俯いてそれを見たとき、なにか大きなうねりが俺の身体を包み込んだ。
 突然無意識に我慢していたものが襲ってきたんだ。
「おい……どうしたんだ」
 思わず前屈みになった俺に、中嶋さんが慌てた様子で俺の背中に手をおき声をかけてくれるのに、手の感触さえ耐えられないもので。
「……も、ダメです……っ!」
「どこか痛むのか?」
 ぐんぐんと下着の布を突き上げるのを感じながら、俺はぶんぶんと首を振ることしかできない。
 そう、俺の身体は訓練虚しく、体操着を着た中嶋さんに一発でノックアウトされてしまったのだ。
 予測していなかったんだ。髪を乱して汗をかいている姿を見るなんて。だって俺とのセックスでだって見たことがなかったんだ。それがジャージ以上の威力があるだなんて、わかるわけがないじゃないか。
 長い間触れられることもなかったそこは、堰を切ったように力を取り戻してきて、俺の意思など全く無視して大きく成長し続ける。
 中嶋さんがしゃがみこみ、俺の顔を覗き込んできて、心配げに寄せられた眉が事情に気がついてくるにつれ、怒りのそれになっていくのが、見なくてもそのオーラで感じる。なのに止められない。
「……お前……」
 ドスのきいた声で呟き、中嶋さんがいきなり俺の腕を掴んで無理矢理立ち上がらせて、俺は慌てて下半身を手で隠す。それにも構わず強い力で引っ張られて痛いと言っても聞いてもくれない。
「な、なにをするんですか……っ」
「ちょっと来い」
 有無を言わさない迫力に、俺はズルズルと人気のいない体育館倉庫の裏まで連れて行かれる。
 壁に背中を押し付けられて、何をされるのか怯えきって震えていると、乱暴にハーフパンツを引きずり落とされた。
「嫌だ……!!」
 思わず中嶋さんから離れようとすると、手の平が俺の胸を押さえて動けなくされる。その前に突き出されたのはテーピングだ。何をされるのか息をのんで見つめていると、そのテープで俺の下半身、立ち上がっているそこの裏筋を腹に押さえつけるように腰に巻きつけ始めたのだ。
「な、な、……っ!」
 想像もしなかった中嶋さんの仕打ちに、俺は呆然と巻きつかれていく下半身を見下ろしたまま動けない。
 手早く何重にも巻きつけられていき、そこは恐怖で縮んでくれてもいいはずなのに、テープと中嶋さんが触れた刺激にますます元気になり、大きくなるとテープに締め付けられて痛みが走る。
「や、やだ……、中嶋さん、やめてください……っ」
「お前はここの訓練が一番必要じゃないのか。いいか、絶対に射精するなよ。射精すると体力も消耗して走る気も削がれる」
「そんな……っ、こんな、走れません、俺……っ」
「走るには支障はないように巻いてある」
 巻き終えた中嶋さんが立ち上がり、俺を覆うようにして見下ろしてくる。顔が十センチと近づいているのに、俺は冷たい恐怖に支配されて凍りついたままだ。それほど中嶋さんの顔は怒りによるオーラに満ちてマグマがドロドロと溢れだしている。
「……負けた時はどうなるかわかってるな。そこを潰されたくなかったら死ぬ気で走れ、いいか」
 目を逸らせないまま、俺はガクガクと縦に首を振るだけで。
 恐怖のあまり急速にそこが萎んでいくのも気付かないまま、俺は慌てて出場口へと戻っていく中嶋さんの後を追いかけたのだ。


 人は、火事に遭遇すると尋常じゃない力を発揮するという。まさにその時の俺は尻、いやあそこに火を点けられたその人そのものだった。
 凄まじい恐怖に追い立てられた俺は、中嶋さんとのチームワークを練習以上に発揮し、ぶっちぎりの一位でゴールしたのだった。 
 皆が俺達を喝采する中、一人泣いてしまったのは感動したからではなく、命が助かった安堵からだとは誰も知らないことだ。
 こうして最後は白組が勝利した。
 中嶋さんは俺への脅迫もすっぱりと忘れ、「よくやった」と上機嫌で褒めてくれたけれど、頭も撫でてくれたけれど、俺はその次の日まで一度も笑えず、足の震えが止まることもなかった。

 練習よりなにより、恐怖が人を最も強くする。
 そんな信じたくない言葉を身体で思い知ったのだ――――――