□新妻遊戯□



 一月五日の深夜に、突然俺の家に電話がかかってきた。
 そのとき俺は妹とテレビを見ていて、バラエティでも二人で見るには少し照れくさい展開に入っていくところだったから、俺が進んで電話をとったんだ。
 相手はなんとあの中嶋さんでとても驚いたんだけど、それ以上にびっくりしたのは、中嶋さんがかけているのがBL学園の寮からだったんだ。まだお正月まっただ中だというのに、中嶋さんはもう学園に戻っているらしい。
 どうしてかと問う時間も与えず、中嶋さんは一方的に「明日来い」と言ってくる。
「え、でも登校日は……」
 八日からじゃあ、と言いかけて慌てて口を噤む。
 六日に寮に戻っても、多分殆どの学生はまだいないはずだ。だけど中嶋さんは一人戻っていて、俺に皆より早く学校に戻ってこいって言ってる。
 つまり、俺が戻れば多分二人きりだ。
 中嶋さんは俺と二人っきりになりたくて、誘ってくれているのか?
 そう思ったら冷たい廊下で話しているのに足下からどんどん身体が熱くなってくる。既に二人っきりの寮での情事が、頭の中で物語を描き始める。
 だけど言ったら駄目だ。中嶋さんはきっと俺を喜ばそうとしてるんだから、中嶋さんの魂胆はわかっているんだって指摘しちゃったら、きっと怒って「もう来るな」って言われてしまう。
 ここは気がついていないふりをして、素直に、でもわざとらしく渋々と「仕方ないですね」と言って騙されなくちゃいけない。その方がきっと中嶋さんは喜んでくれる。
 緊張しているのを、喜んで顔がほころんでいるのを悟られないように、必死で声を押さえながら声を出す。
「し……かたないですね、じゃあ行きます」
 声が少し上擦ったけれど、中嶋さんは何も言わずに電話を切った。
 ばれなかっただろうか。誘われてあげたんだって、そんな風に聞こえてくれただろうか。
「……っ」
 電話をゆっくりと置いてから、熱湯のような血がとうとう頭まで上ってきて爆発する。
 どうしよう、どうしよう。
 中嶋さんと二人。
 寮の中で二人きりで、俺は何をされちゃうんだろう。
 頭も身体もうれしさと期待でパンクしそうで、その場に屈み込んだまま俺はしばらく動けなかった。
 


 マフラーで顔を覆っても、学園島に吹きすさぶ風はとてつもなく冷たく、感覚を失った鼻から鼻水が垂れてくる。髪の毛も凍り付いてぱきぱき鳴りそうだ。
 何度も鼻をすすりながら、震えながら、だけど学園島へとたどり着くまでの道は、寒ければ寒いほど至上の幸せへとたどり着く試練のように感じて、「負けるか」と呟きながら突進する足取りはとても軽い。
 あと、身体が軽いのは朝にこれでもかと身体を洗って垢がとれたせいかもしれない。何故皮膚の皮がめくれる程身体を擦ったかなんて、理由は当然のことで。
 とうとう寮の扉までたどり着いた時、俺の顔の緩みはマックスだった。顔を合わせる前になんとかひきしめたいんだけど、冷たい風は俺の顔を緩ませたまま凍らせているらしく、にやけた顔が戻らない。
 そっと扉を開けると、外よりは暖かいけれどひんやりとした空気に触れる。
 何の音もしなくて、お昼過ぎだけれど灯りが灯されていない廊下は薄暗くて、やはり誰もまだ戻っていないようだ。
「……失礼しまーす……」
 他人の家に上がりこむわけでもないのに、緊張しながら靴を脱いでいると、微かに足音が聞こえてきてドキリとする。
 この足音はもしかして、いや多分。
 靴を持ったまま硬直しているのにも気づかず、次第に大きくなってくるその足音に耳を澄ます。
 俺から目を合わせちゃダメだ。だって来てあげたんだから。中嶋さんから声をかけてくれたら、なんでもないふりをして顔を上げるんだ。
 足音はとうとう玄関のロビーにたどり着いて、俺の心臓の音も最大にまで大きくなる。
「よく来たな、伊藤」
 だけどその声は、何度も想像して待ちわびていたかの人とは違っていた。
「……篠宮さん」
 驚いて顔を上げると、そこには中嶋さんとは正反対のやさしい目をした篠宮さんが立っていたんだ。


 意味がわからず、戸惑う俺を「こっちだ」と行って連れていかれたのは、篠宮さんの部屋だった。
 うれしそうに顔を綻ばせている篠宮さんは、いつもより少しだけ顔が赤いのは気のせいだろうか。
 俺は篠宮さんに今日戻ることを言っていないし、もちろん俺だって篠宮さんがいるとは知らなかった。なのに篠宮さんは俺を待っていたような素振りで、当然のように俺の前を先導する。
 篠宮さんの部屋に、何故俺は行かなくちゃいけないんだろう。そう思うのに混乱しているせいで理由も聞けない。
 俺が狼狽しているのを知ってか知らずか、上機嫌の篠宮さんが部屋のドアを開けて先に入れてくれる。
 だけど、部屋の中に上がり込んで待っていたのは。
「……中嶋さ、ん」
 中嶋さんと、部屋の中心にどっかりと鎮座した大きなコタツ。
 驚いて立ちつくしたままでいると、後ろから篠宮さんが肩を叩いてくる。
「まあ座ってくれ、今日は新年会なんだ」
 更に驚愕の言葉を口にした篠宮さんと、ガラスのコップになみなみと日本酒をついでいる中嶋さんを交互に見つめる。
 コタツに入った中嶋さんに驚いている場合じゃない。いや、それも口が塞がらない程驚いたんだけど。
 コタツのテーブルの上に置かれた数々のお酒とつまみ。やはり篠宮さんらしくそれらは乱雑ではなく整頓されて並んでいる。
 和風に統一された部屋は清潔が行き届いていて、コタツだって敷き布も掛け布も、部屋の雰囲気に合わせているんだろう、着物の生地のようなとても洗練されたものだ。だから中嶋さんが座っていても、腰を抜かす程じゃなかったのかもしれない。
 篠宮さんに押されるまま、俺はコタツの一角で足も入れず正座をする。
 状況が把握できず目を丸くしているのを、隣の一角に座った篠宮さんがおかしそうに見つめてくる。
「どうしたんだ伊藤。俺達が一緒に酒を飲んでいるのがそんなにおかしいか?」
 言われて気がついた、篠宮さんの手に捕まれた酒のカップ。
 寮の規律だけでなく、人生の規律さえ一生守り通すだろうこの人が、寮で酒を飲んでいるなんて。頬が赤いのはそのせいだったんだ。
 苦笑しながら篠宮さんが照れくさそうに言葉を続ける。
「一年に一度ぐらい、はめを外す日があってもいいと思ってな。正月は日本の文化だし、おとそはやはり飲むべきだからな。それで、早めに寮に戻って、毎年俺と中嶋の二人で新年会をしているんだ。明日は丹羽や成瀬も戻ってきてまた新年会なんだがな」
 最後の言葉にひっかかり、右横にいる篠宮さんを見つめる。
 ―――篠宮さんと、中嶋さんと二人きりで?
「今日は二人だけだったんだが、今回は伊藤も誘おうということになってな、三人で新年会だ。……嫌だったか? 伊藤」
 頬をひきつらせている俺の様子に気がついて、篠宮さんが顔を覗き込んでくる。
「いえ、ちょっとびっくりしてしまって……、あの、どうして俺が呼ばれたんでしょうか……」
「ああ、中嶋がどうしても呼びたいって言ってな。俺ももちろん賛成だったんだが……中嶋から聞いてなかったのか?」
「はい、何も……」
 ちゃんと説明しておけ、と篠宮さんが中嶋さんに言っても、中嶋さんは我関せずと酒を飲み続けている。でもそんな態度はいつものことなのか、篠宮さんは何も言わずに同じように酒を飲み始める。
 二人に流れる、もう三年も続く親しい間柄だけが持つ空気を感じて、俺は驚くしかない。
 確かに真面目で清らかで、誰からも信頼される篠宮さんを中嶋さんは認めてる。褒めることも多いし、篠宮さんに対して不満を言ったこともないような気がする。
 かたや篠宮さんの方も、副会長として、友人として中嶋さんを信頼しきっているのは知っている。それは、中嶋さんの裏の顔を知らないからだって思っていたけれど。
 でも、まさか二人きりで飲み合う関係とは知らなかった。
 中嶋さんが俺を呼びたいって言ったことは素直にうれしい。だけど、何故俺がここに呼ばれなくちゃいけないんだ?
 ……勝手に、二人で飲んでいればいいじゃないか。
 今度は、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
 つまり、期待してここまでやってきた俺は、すべて勘違いだったわけで。それも中嶋さんが電話で一切説明してくれなかったせいであって。
 ちゃんと理由を言ってほしかった。
 どちらにしろ俺はここにやってきたと思う。だから、バカみたいに浮かれていた自分がくやしい。もったいない。
 俺を呼びたいって言ったとは思えない、目の前に座る中嶋さんの態度にも腹が立つ。俺の存在なんて無視して、気を許した友人に対する目で、篠宮さんと話をしてるんだ。
 ひさしぶりに見た中嶋さんは、あいかわらずかっこいいなって思ってしまう自分も殴ってやりたい。
 目が吸い寄せられてしまう、第二ボタンまで開けた白いシャツ。
 くつろいだ姿勢と、酒が入った気怠げな雰囲気。一メートル程向こうにいるというのに、匂いまで嗅ぎ取ろうとしている自分に気がついて慌てて首を振った。
 何やってるんだよ、俺は今怒ってるんだ。見とれてる場合じゃない。
「伊藤」
「は、はいっ」
「酒が切れたからちょっと買いに出てくる。待っててくれるか」
 気がつくと篠宮さんだけでなく、中嶋さんも立ち上がっていて俺は二人を見上げる形になる。
「二人で、ですか?」
「一人で持てる量じゃないからな。中嶋も連れていく」
「じゃあ俺も……」
「いや、伊藤は来たばかりで疲れているだろう。ゆっくりしていてくれ」
 言い返す機会も与えられないまま、仲睦ましげに二人はさっさと部屋を出ていってしまった。


 あっという間に一人取り残されて、すぐに寮内を包んでいるのと同じ沈黙が部屋を包んだ。
 俺はしばらくドアを見つめて、しばらくしてからコタツの上に目を移す。俺用に置いてくれたコップには、透明の液体が縁まで注がれている。
 招待したのが俊介や和希だったとしたら、俺は素直に喜んでこの新年会に参加していたはずだ。
「篠宮さん、気がついたかな……」
 篠宮さんだって、俺が喜んでくれると思って呼んでくれたはずなのに、笑顔もろくに浮かべなかった。きっと気にしていると思う。
 だけど、中嶋さんと二人きりだって思いこんでいたところに、篠宮さんがいて、俺が中嶋さんと二人きりのところを邪魔している状態で。
 二人の間に流れていた、気の知れた仲にしか出せない空気を思い出してちり、と胸が痛む。
 俺って最悪だ。何も二人の間にないってわかってるのに、嫌なことを思ってる。
「……くそっ」
 コートを脱ぎ捨て、目の前のコップを掴み、勢いよく口につけて一気に飲み干す。
 苦い味が口の中に広がり、喉が焼けるような熱さに眉をしかめてしまうけれど、それでも口は離さない。お酒なんて好きじゃないし、ろくに飲んだこともないけれど離すものか。
 怒りや嫉妬やくやしさを、酒を飲むという行為で忘れたいのか更に煽りたいのか。自分でもわからない。
 それがやけ酒と言われることも知らず、半分を過ぎて苦しくなっても、ペースを落としながら最後まで飲み干した。それでも足りず、すぐに横に置いてある一升瓶から酒を注ぐ。
 朝から何も食べていなかったお腹に一杯目の酒は相当効いたらしく、胃から一気に頭に熱さが回ってきて、ぐらりと視界が揺れる。
 それでも、二杯目に口をつけて、同じ勢いで飲み干していく。
 とにかく、今の俺には飲み干すということに意地なっているしかなかったんだ。
 三杯目を半分まで減らしたところで、乱暴にコップをテーブルに置きながら、言えなかった言葉を口にする。
 つまり、酒の力を借りて。
「中嶋さんのばか!! ばか、ばか、ばか!!」
 一回では足りず、何度も何度も叫びながら三杯目を空にして、もっと罵る言葉がないか考える。
 だけど、頭の芯まで酔いが回ってきたのか、思考は脳の中心まで到達しないらしく、何も思い浮かばない。
「ばか……」
 罵る言葉ひとつしか浮かばないなんて、情けない。
 言えないことにますます腹が立ってきて、今度の怒りの矛先は何故か篠宮さんに向かう。
「篠宮さんだって、だって、……ずるい!!」
 そうだ、この原因はすべて篠宮さんにあるんだ。
 原因をつきとめた俺はうれしくなって「篠宮さんのせいだ」と叫びながら後ろにひっくり返った。
「中嶋さんと二人きりになっちゃって、何が寮長だよっ、中嶋さんは俺のも……」
 最後まで言い切れず、口を噤んで黙り込む。
 酔っぱらっていても、擦り込みとでもいうんだろうか、苦い経験を何度も味わっているせいで言い切れない。
 嫌な気分になってごろりと身体を横に向けると、クローゼットの前に綺麗に折り畳まれた白い布を見つけた。何口か酒を飲んでから、這っていきその布を掴んで持ってくる。
 膝の上で広げられたそれは、よく見覚えのある、篠宮さんのエプロンだった。
 なんともなしに、それを持ち上げて広げると、アイロンがぴしりとかけられたそれからいい匂いがする。
 そういえば、家を出る前にも、母さんがエプロンをしていたのを思い出した。料理人でもなければ、エプロンは女性がするものと思ってしまうけれど、料理好きな篠宮さんは自分のエプロンを多分寮でただ一人持っているんだ。
「……ふーん」
 いきなり興味を失ってそれを放り投げて、再び酒を口にする。
「……奥さんじゃないんだからさ」
 捨て台詞のつもりだった。
 酔っていなければ決して口にしない言葉に後悔するどころか、頭の中に閃光が走る。
 そうだ、そうだったんだ。
 もう一度エプロンを見つめながら、驚愕の新事実を見つけだしたことに我ながら関心してしまう。
 ――篠宮さんは、中嶋さんの奥さんになりたかったんだ。
 だから、中嶋さんを呼んでふたりきりになりたくて、甲斐甲斐しく中嶋さんの世話なんてしちゃってるんだ。
 我ながら賢いなとふふふ、と笑ったあと、怒りにまかせてエプロンを壁に投げつける。
「……奥さんは俺だっ!!」
 エプロンなんかで中嶋さんは騙されないぞ。
 僅かに残されていたまともな脳が、どれだけ恐ろしいことを言ったのかと責める。だけど大多数の脳が麻痺しているからそんな忠告聞いちゃいない。
 だって、奥さんは俺なんだから。
 何故かその言葉が脳の中でリフレインして、しまいには何度も「俺だ」と呟きながら放り投げられたエプロンを再び手にする。
 シンプルで飾り気のないそれは、いつしか女性が着るようなフリルのあるかわいらしいものに変化していた。いや、そうにしか見えなくなっていた。
 これは俺が着るべきなんだ。だって俺は中嶋さんの若奥さんなんだから。何故若奥さんかって、だって、出会ってまだ一年も経っていないから。だから俺達は新婚だ。
 テーブルの上には、篠宮さんが作ったであろうつまみやおかずがある。それを見て使命感にかられた俺はすっくと立ち上がり、そのエプロンを身につける。
「料理、作らなきゃ……」
 短い廊下まで歩いて、そこで俺は立ち止まった。
 酔っているとはいえ、冷静な部分も残っているらしく、部屋の中に台所などないことを知っている。だけど厨房に行けばあるってことまでは気がつかない。脳内では、新婚は一戸建てマンションのイメージらしく、既に部屋はマンションの一室になっているからだ。
 そこで、俺がしたのは廊下を台所に見立てることだった。廊下の真ん中で壁に向かって立ち、時々ぐらりと揺れる視界の中に、小さな台所を再現させたんだ。
 白いエプロンを身につけた俺は、包丁を持ってまな板の上で何かを切り始める。料理など殆どしたことのない俺が想像する「料理」といえばまずこれだから。
 廊下に持ち出した一升瓶を時々口にしながら、俺は上機嫌で鼻歌を口にしながら料理を続ける。
 既に景色は新婚夫婦はこうだろう、という乏しいながらもイメージは大きく広がっており、幸せで仕方なくなってくる。
 中嶋さんはどうしているだろう。俺が料理を作っている間、少しは俺の事を気にしてくれるだろうか。
 見てくれているだろうか。
 別に男同士なら、俺じゃなくたって中嶋さんが奥さんになってもいいんだけど、今の俺は偽物の奥さんをきどる篠宮さんに負けたくないので奥さん役だ。
 当然俺のことを見てくれるだろう、だって旦那なんだから。
 旦那、という響きに火照った顔が更にかぁっと熱くなる。
 疲れたと言ってネクタイを緩めて、白いシャツをはだけてソファーに座っている。うれしそうに、意味深な目をして俺のことを見ているんだ。
 そして、俺の名前を呼ぶ。いつもの低い声で。
 料理に打ち込んでいる俺の心をかき乱すそれは、一瞬で俺をその気にさせる。
「……脱がなきゃ……」
 だって、あの人は脱いでた。だから脱がなければ次の展開に進めない。
 あの人と思っても、それが今の俺には誰だったかは思い出せない。
 どうして新婚とか奥さんとか、別に興味もなかった俺がはっきりとイメージできているのか、その時の俺にはもちろんわからなかった。
 連想していたのは、中嶋さんから電話をもらった時に見ていた深夜番組だった。ほんの少しだけ出てきたギャグのネタだったはずなのに、それが何故か記憶に残っていたらしい。
 俺は、一度エプロンを脱いでから、着ていた自分の服を脱ぎ始める。力が入らず手こずりながら、恥ずかしいとも全く思わず最後の一枚をコタツの方に放り投げた。
 全裸につけるのはもちろんエプロンだ。
 微笑みながら、俺は白い紐を首にひっかけ、もうひとつを腰の後ろでしっかりとリボン結びにする。
 多分調理実習でつけたことはあるけれど、素肌に着るのはもちろん初めてで、中途半端に前身だけ布が覆う感触は新鮮だ。それも前だけスカートを履いているみたいだし、上はタンクトップよりも露出してる。
 しかも、後ろは首の後ろと腰にひっかかった紐だけで、何も隠れてない。
 俺は興味深げに全身の感触を味わう。とても不思議で、酔いも忘れてしばらく布や自分の肌を撫でてしまう。腰の下に下がった布をめくってみると、もう下半身は丸見えだ。
 尻を撫でてみて、ぞくりと身体が震えてしまった。
 しかも、さっきまでこちらを見ていた中嶋さんに気がついてしまった。
 中嶋さんはこの格好をすれば俺に近づいてくれる。本当は絶対にありえないだろう事なのに、喜ぶはずなどないはずなのに、その時の俺はそう信じ切っていた。
 既に脳内では、何も隠せていない背後に中嶋さんが立っている。俺をすっぱり覆う程大きな身体がある。
(……啓太)
「……ぁ……っ」
 耳元で囁かれ、息だけで俺の肌に触れてくる。
 肩をすくませて、包丁を持っていた手が止まってしまう。
「だ、めです……、料理、作ってる、のに……っ」
 口先だけでしか抵抗できない俺をもちろん中嶋さんは知っていて、後ろできっといじわるそうに微笑んでる。
 尖らせた舌先が耳たぶを撫でて、鼻に抜けるような息を吐いてしまう。
「ほんとに、だめです、って……」
(……ふぅん)
「……ひ……」
 耳たぶに唇をつけながら言われて、声の響きが直に伝わってきて、期待に震え始めている身体に力が入らない。
「……や……」
 紐を掠めて、布の内側に手を回される。剥き出しの腰を掴まれる。それだけでその他にへたりこみそうになってしまい、顎を反らしてそれに耐える。
 触れるか触れないかのタッチで、大きな手が俺の腰に触れてそのまま動かない。もっとちゃんと感じたいのに動いてくれなくて、次第に焦れてしまって自分からその手に腰を押しつけてしまう。
「ぁ、あっ」
 脳内のどこまでもやさしい中嶋さんは、すぐに望む以上の力強さで掴んでくれて、そのまま右の尻まで指が食い込む程の強さで掴まれる。
「や、あ……」
 更に両手で尻を掴んで割り開くと、恥ずかしさに目尻に涙が溜まってくる。もちろん、自分の手が中嶋さんの手に置き換えられてる。
 前を覆う布が突っ張り、先端が当たる部分の布の色が変わっていく。
(料理はしないのか)
 やさしい中嶋さんでもいじわるはするらしく、薄く笑いながら俺に料理を続けさせようとする。それが更に俺の興奮を煽ることを知っているからだ。
 左手で尻を撫でながら、右手で再び包丁を握りしめ、大根を切り始める。手が震えてしまってうまく切ることができない。撫でる手に夢中になってしまい、何度も包丁を動かすのを忘れてしまう。
 はやく指を入れてほしくて、だけどお願いするのは恥ずかしくて、尻を振って訴える。そのはしたない姿を中嶋さんに笑われて、それでも動かすのを止められない。
「ぁ……は、やく……っ」
 中嶋さんの指が、ようやく孔の周りをなぞっていき、それを早く吸い込もうと収縮を繰り返すのがわかる。
 ここでいつもなら、真実の中嶋さんなら散々焦らして泣くまで耐えさせられるところだけれど、今後ろから俺を抱く中嶋さんは違う。
 太い指はすぐに俺の中に入って、その気持ちよさに更に前の布を濡らした。
「あ、……あ……っ! 中嶋さ……! あぁっ」
 浅い場所を何度も指が擦っていき、たまらず包丁を掴んでいた手を離して、エプロンの布ごと前を握りしめた。
 糊のきいた綿でできた荒い生地が、固く湿りきったそこを扱いていく感触は目がくらむ程に気持ちがいい。少し痛いのがたまらない。
 まるで中嶋さんの手で扱かれているように、丹念にだけど乱暴に扱くと、どんどん布が濡れて色が変わっていく。
「ぁ、ぁっ、な、か、……じまさんっ、……っ」
 左手の人差し指と中指で孔を突きながら、エプロンの布越しに扱き、上擦った声で何度も中嶋さんの名前を呼ぶ。
 俺は、中嶋さんの奥さんなんだ。
 奥さんだけが、中嶋さんにやさしくしてもらえる。抱いてもらえるんだ。
(……啓太)
 射精を促す熱のこもった息を耳に吹きかけられ、かぶりを振ってこみあげるものに耐える。
(お前が射精するところを見せろ)
「ぃや……あ!」
 力を入れて堰き止めようとしても、右手に握りしめた先端にまで熱いものがせり上がっている。止められない。中嶋さんが見ているのに、俺のことをじっと、熱くていやらしい目で見ているというのに。
「ひぃ、く」
 自分で入れられる最も奥まで指を入れて一瞬右手が緩んだ瞬間、見てほしくない気持ちを裏切った身体が、見せつけるように腰を突き出しながら射精を始めた。
「ぁ……ぁ……―――――」
 握りしめたそこが、布を通過しきれない精液で一杯になる。濡れた音が激しくて、それを中嶋さんに聞かれているかと思うだけでどんどん精液が溢れ出てくる。自分の精液を使って更にそこを扱く行為に夢中になる。
「あ、ふ……、ふ……っ」
 しまいには床にへたりこみ、一滴も出なくなるまで扱いていると、大きな金属音が響いてドアの方向を向いた。
 見上げたその先に、開いたドアの隙間から覗いているのは、俺の旦那である中嶋さんで。
 うれしくて微笑むと、勢いよくドアが閉まって一瞬で見えなくなる。
「……中嶋さん……?」
 どうしてドアの向こうに中嶋さんがいるのか、そうか、隣の部屋は寝室だった、と思い出して次の展開に胸をときめかせていると、しばらくしてまたドアが開く。
 今度は恐ろしい勢いで中嶋さんが入ってきて、後ろ手に鍵をかけるのをぼんやりと眺めていると、俺の目の前にしゃがみこんでくる。
「……中嶋さん?」
 その表情は僅かにひきつっていて、不思議に思って顔を覗いてみても反応はない。
 すると、俺は腕を引っ張られて抱きかかえられた。腰を膝の裏に腕を回されて、お姫様抱っこにされて驚いてしまう。
 そうか、俺達は新婚だからだ。
 何故かその抱き方に納得し、このまま寝室に連れていかれるんだと期待に胸躍らせて、だけどそれを知られたくなくて顔を隠そうと中嶋さんの首に回すと、中嶋さんが歩きだして廊下の角にある部屋のドアを開けた。
 それは、先ほど中嶋さんが出てきた寝室のドアじゃない。
 暗いそこも寝室だったっけ、と記憶を探っていると、いきなりそこに真下に落とされる。
「……っ!」
 痛みに声も出ず歯をくいしばって身体を縮めた。
 裸の尻に当たった冷たく固い感触。
 それに、エプロンしか身につけていない身体にこの部屋はとても寒くて、ぶるりと震えてしまう。
 ベッドじゃないんだろうか。こんな冷たい床の上に座らされて、一体中嶋さんは俺に何をするつもりなんだろう。
「……啓太、啓太!」
 不安に包まれて更に膝を抱えて丸くなっていると、頭上から何度も俺を呼ぶ声がして見上げた。
「いいか、俺が開けるまで絶対に出てくるな。どんな音も立てるなよ」
 わけがわからず呆けたまま見ていると、眉間に皺を寄せて、だけどどこか青ざめて見えるその顔が近づいてくる。
「……絶対に出てくるな、わかったな」
 冷たい目に射竦められ、俺は驚いてただ何度も頷くだけだ。
 どうしてこんな怖い顔をするのかさっぱりわからない。だけど、動物の本能のようなものが中嶋さんの尋常ではない迫力を身体で感じたのだ。
 そうして、乱暴にドアが閉まり、中嶋さんは出ていった。
 透けないガラスから入り込んでくる僅かな部屋の灯りだけの薄暗い部屋に、俺は一人取り残されたのだ。
 マンションにこんな部屋はあったのかと見渡すと、ここは二畳ほどしかなく、壁反面がクリーム色のタイルで覆われている。横には風呂桶があって、シャワーのノズルもある。
 風呂場だということはわかるけれど、何故ここに俺がいるのかがわからない。
 床が冷たいはずだ。だってタイルの上に素肌で座っているんだから。
 立ち上がろうとして背中に水道の蛇口が当たり、冷たさに声を上げそうになる。だけど寸前で口を押さえて、どう動いても音を立ててしまいそうなのでそのまま動かないことにする。
 だけど、寒くて寒くて凍えそうなんだ。



 自分の身に何が起きているのか。
 いつのまにか、俺は身体を横たえてできるだけ身体を丸めさせて、寒さに耐え続けながら考えていた。
 冷たいタイルと空気は、俺の酔いを覚ますのには効果的だったらしい。次第に考えることができるようになっている。
 だけど完全に記憶を取り戻すこともできず、いくら考えても何故ここでエプロンをつけただけの素っ裸で放置されているのかわからないのだ。
 垂れてくる鼻を、できるだけ音をさせないようにすすり、唯一俺の身体を暖めるエプロンで身体を包もうとしてももちろん無駄な動きで。
 どうしてこんなにひもじくて、悲しいんだろう。
 わからないのに何故か涙が目尻からタイルに伝っていく。
「……ひ……っく」
 泣くから更に鼻水も出るってわかってるのに全然止まらなくて、涙も拭くには多すぎて、結局どちらも拭うのをあきらめた。
 すすり泣く声を出すまいと口を押さえても、手で塞ぐ行為さえ何故か更に悲しさを煽ってしまい、結局ただガラスのドアを見つめたまましゃくりあげ続けるしかなかった。
 足先も手先ももう冷えきって感覚がない。
 もしかしたら、俺はここで凍えて死んでしまうかもしれない。
 鮮明になりつつあった思考もまた失われつつあったその時、ガラスのドアが勢いよく開けられた。動くことができないまま、そこに現れた人物の足元と見ていると、その人が屈み込んできて俺の身体を起こさせる。
 両肩を掴まれて、俺の顔と同じ高さにあるその人と目を合わして、しばらくして誰だかわかって名前を呼んでみるのに、凍えて声にならない。
 だけど、中嶋さんと目を合わせたその瞬間、ようやく俺は我に返ったんだ。
 ―――俺は今篠宮さんの部屋にいて、中嶋さんと三人で新年会をしようとしていた。
「……貴様は一体……何を考えてるんだ……」
 聞いたことのない、とてつもなく怒っているけれどどこか焦っているような声。
 俺は怯えながら、震える口をなんとか動かし答える。
「……お、お、俺も、なにがなんだか……」



 数枚のバスタオルにくるまれて風呂場を出ると、コタツには篠宮さんが仰向けになって寝息を立てていた。
「……篠宮さん……?」
 寝てしまうのを待って、中嶋さんは俺を出してくれたんだとわかる。もしかしたら、わざと酔い潰させたのかもしれない。
 今の状態の俺を見られたら、驚くどころかきっと卒倒してしまうだろうから。
 だって、素っ裸で篠宮さんのエプロンを着ている上、とんでもないもので汚してしまってるんだから。
 時計を見ると三時を過ぎていて、閉じこめられいた時間は一時間以上に及んでいことがわかる。
 篠宮さんの部屋に入ってきてから風呂場で凍えている間のことを、俺は思い出すことができなかった。だけどとてつもなく恥ずかしい事をしたことはわかる。
 だって、素っ裸でなんと篠宮さんのエプロンまで着てるんだ。
 前を精液で汚して。
 どうしてそんな格好になったのかは覚えてなくても、とんでもない事をしたのは一目瞭然だ。
「早くコタツに入れ。冷えきってる」
「で、でも……」
「あいつは当分起きない。それに酔ってる間の事は殆ど覚えてないから大丈夫だ」
 おとなしくコタツに足を入れると、感覚が次第に戻ってきて深く身体を埋める。それを見届けてから、中嶋さんが横に座りめずらしく大きなため息をついた。
「新年早々……、本当にお前は最悪だな」
「す、すいません……」
 その顔は焦燥しきっていて、ここまで疲れた顔を見るのは初めてかもしれないと思った。
 きっと、篠宮さんを酔い潰させただけでなく、篠宮さんにバレないようにいろいろ処理してくれたんだろう。
 しばらくの間、何故こんなことになったのかと何度も問われてたけれど、俺も覚えてないとしか答えられなかった。
 すると中嶋さんは理由がわからなければ怒ることもできないのか、怒っても仕方がないと諦めたのか、それ以上追求するのを止めてしまった。
 だけど、身体中から湧き出るオーラは、怒って吐き出すことができない分更に大きくなっているように見える。
「そのエプロンは洗って返せ、俺から適当にごまかしておく」
「……はい……」
 できるだけ小さくなって俯き、いつ中嶋さんが激昂してしまうのかと怯えていると、大きな手の平が俺の背中をさすり、驚いて中嶋さんの顔を見つめてしまう。
 怒っているのに、眉間の皺は消えていないのに、その手はとても暖かいんだ。
 そう、俺はこの部屋に来るはずじゃなくて、中嶋さんの部屋に行きたかったんだって、突然思い出していた。
「……俺、……俺、……二人きりだと思ったから……」
 自然に口から言葉が出てくる。
 ついでにまた目頭が熱くなってくる。
「だから、俺、何も言ってくれなかった中嶋さんに怒ってて、篠宮さんにも……。どうして、篠宮さんと二人で新年会なんてしているんですか……」
 そうだ。
 俺の怒りの発端は、事件のきっかけはそれだったんだ。
 仲がいいからとか、そんな理由で正月を返上してまで篠宮さんと会うなんて、絶対におかしい。
「この日ぐらいしか、篠宮の口から情報を聞き出せないからだ」
「……え」
「こいつは酒を飲むと口が軽くなるらしくてな、いつもは絶対に言わないことも聞けば簡単に答える」
「情報って……」
 僅かに残っていた酒を飲み、わけがわからず次の言葉が出てこない俺をちらりと見やる。
「誰が何を持ち込んで違反したか、誰がどれだけ門限を破ったか、外泊しているか、学生のプライベートをこいつは一番知ってる。寮長の仕事以外にも、相談や悩み事やらも聞いてやってるからな。それを聞き出すためだ」
「どうして……、どうしてそんなこと……」
 驚いて目を合わせると、何故そんなことがわからないのかと言いたげに目を細め、やがてあっさりと言い放つ。
「使えるからに決まってるだろう」
 中嶋さんの本性を覗き込んだことのある俺には、それがどういう意味なのかはわかりたくないのにわかってしまう。
 つまり、つまり……簡単に言えば「担保」のようなもので。
 何かあった時に使える、脅迫するネタとも言うわけで。
 その為に、篠宮さんを利用していたというわけなのか。
 中嶋さんは篠宮さんの事を信頼していると思っていたのに、それさえも嘘だったのかと疑い始めてくる。確かに、自分にとって価値があるかないだけで人を判断するこの人のことは、少しは知っているつもりだったけれど。
「早くここに戻ってくる価値はある」
 満足げに言う中嶋さんの顔は、もちろん悪びれる様子などない。横で篠宮さんが寝ていて、聞かれているかもしれないとびくびくしている俺とは正反対だ。
「だが、こいつの勘は鋭いから三度も俺の手にひっかかるかわからなくてな。今年は警戒心を解く為にお前を呼んでみたんだが……お前のバカさは想像を越えた。失敗だ」
 続く言葉の中に俺を呼んだ本当の理由があったけれど、もうそんなことはどうでもよくなってしまった。
 つまり、俺は中嶋さんの計画を失敗させて、篠宮さんを守ることになったわけだ。
 中嶋さんの毒芽にかからなくてすんだという意味では、俺が来てよかったもしれないなどと失礼なことを考えていると、中嶋さんが低い唸るような声に慌てて頭を上げる。
「……で、この責任はどう取るつもりだ、啓太」
「えっ?」
「どうするのかと聞いてるんだ」
「……あ、あの……」
 狼狽する俺など無視してしばらく考えてから、再び中嶋さんが口を開く。
「……お前に出来ることは……そうだな、遠藤の弱みを探してこい、あと成瀬もな。この二人ならお前なら簡単だろう。俺を驚かせたのに免じて二人にしておいてやる」
「そんな……!」
「今日の事をすべて篠宮にばらすぞ。それでもいいのか?」
「…………っ」
「裸にエプロンでも着て甘えてやれ」
 ―――中嶋さんが俺を脅すネタなんて今までに山程あるけれど。
 今回ほど俺にとっては最低で、中嶋さんにとって最高のネタはしばらくないんじゃないだろうか。
 これから自分に課せられる更なる重圧を感じて、俺は再び身体を凍てつかせるのだった。
 







END