「熱病 後編」



「…38℃。…本当にどうしようもないバカだな」
俺の口から取り出した体温計を見つめ、氷のような冷たい声で中嶋さんが言い放つ。
次の日の朝、ベットから元気に起き上がったのは中嶋さんで、起き上がれなくなったのは俺だった。全身の関節が痛くてだるい。急速に体温が上昇しているのが自分でもわかる。
「病人と一緒のベットで寝るやつがあるか。そんなに風邪をひきたかったか」
 中嶋さんの眉間に寄せられた皺は、俺を同じ布団の中で見つけた時から消えない。
「…だって…」
「だって?だって何だ、言い訳できるなら言ってみろ」
すさまじい怒りのオーラに俺は熱からではない悪寒を感じて掛け布団の中に頭をもぐりこませる。頭上で「本当にバカだ」と低い唸り声が聞こえた。
「今日はおとなしく寝ていろ」
驚いて布団から頭を出すと、中嶋さんは昨晩まで熱があったと思えないほど素早く学校に行く支度を整えて、俺を置いて部屋を出ていこうとしていた。
「待ってください、俺も学校に出ます!」
「黙れ!」
突然の怒号に全身を貫かれ全身が硬直する。目を見開いたまま動けない俺を一瞥した。
「今日の約束はなしだ。わかったな」
乱暴にドアが閉められる。俺一人取り残された中嶋さんの部屋の中は突然音が消えた。しばらくの間、俺は身体を怯えで縮めさせたまま、呆然と閉められたドアを見つめていた。
どんな言葉も心に浮かんでこない。

眠気などあるわけがなかった。
昨日の夜まで浮き立っていたことなどすべて頭から消え去っていた。思い出せない方がいい、今の状況が更につらくなる。朝が来たのと同時にどん底に突き落とされた、いや、自分から落ちてしまったのだ。
最低な誕生日の始まり。…俺、何をしているんだろう。
ただ中嶋さんと一緒にいられたらって、そう思ってただけなのに。
約束を断られて当然だ、こんな状態で行けるわけがない。例え夕方までに熱が下がったとしても撤回することはできないだろう。怒らせてしまったのだから、それも今までにないぐらいに。
俺は身体を横にし、肘をついて重い身体をゆっくり起こした。授業が終わり中嶋さんが部屋に戻ってくる時までここにいるつもりはない。自分の部屋に一刻も早く戻りたかった。迷惑をかけたくない…情けない自分も見られたくない。
足を床につけて立ち上がってみると、眩暈が起きて体がぐらつきベットに倒れこみそうになる。制服のシャツとズボンがしわくちゃだ。外れてしまったネクタイを床から拾い上げ、ふらつく足で中嶋さんの部屋を出る。
静まり返った廊下に出て歩き始めると宙に浮いているような感覚がする。寒いのに頭は熱くてその熱で思考がうまく働かない。足元はふらついて、右に左にと身体が揺らぎまっすぐ歩いていない気がする。一日だけでこんなにひどくなるなんて、中嶋さんの風邪は見た目以上にきついものだったんだろうか。あまりひどくないものだと勘違いしてしまったのは、中嶋さんの身体が強いからか、それとも俺に心配させないようにしてくれていたんだろうか。
なんとか自分の部屋にたどり着き中に入ると、足元から力が抜けて膝からうつ伏せに床に倒れてしまった。
動けない。…動きたくない。
頭の先からあと数十センチでベットがあるというのに、気力は尽きてしまってた。冷たい床が頬に当たって気持がよくて、俺はそのまま目を閉じた。

海の底で上に這い上がろうともがき苦しむ。暗くて何も見えない、息ができない。胸をかきむしって助けてと叫ぼうとするけれど声が出ない。声を張り上げられない苦しさに暴れていると、視界がいつのまにか白いものになっていて、いきなり夢から醒めたことを知った。自分の部屋の壁を、床にうつ伏せに倒れたままで見つめていたのだった。
意識がはっきりするのを待ってもいっこうに戻らないので、とにかく寒いのをなんとかしたくて起き上がってみた。身体がうまく動かないのは手足が冷たいせいだろうか。
時計を見るといつの間にか午後の4時だった。学校の授業がもうすぐ終わる時間だ。長い間寝ていたというのに熱は更に上がっているみたいで、身体に力が全然入らない。とにかくちゃんと着替えてベットに入ろうとシャツのボタンを外そうとしても、力がなくて全然外すことができない。ズボンから下ろそうとベルトをなんとか外しボタンをつけたまま一気に脱ごうとすると、何か音がしてズボンのポケットを探ってみた。
出てきたのはしわくちゃになってしまった小さな紙が二枚。渡すことができなかった、今日のジャズコンサートのチケット。丁寧に皺を伸ばして、チケットに記載された日付と時間を見つめて、もう一度時計を見た。開演まであと2時間を切っている。
もう一緒に行ってくれるはずだった相手はいない。
チケットを破り捨てようと二枚を揃えて指に力を入れる。ためらいでその瞬間手が震えた。
一気に力を入れると千切れていく音が部屋に響く。
いつまでも最後まで千切れないのでチケットを見てみると、まだ2センチ程しか破れていないのに手は止まっていた。そこから破ることができないでいたのだった。
…俺は、何のためにこのチケットを取ったんだ。そう自分に問いかけていた。
もう一度、中嶋さんが初めて俺に聞かせてくれたあの曲を、あの歌を聞きたい、そう思ったから。これは、自分から自分への誕生日プレゼントだった。
じゃあ、どうして諦める必要があるんだ。熱があるから?中嶋さんに断られたから?どれも理由になんかならないじゃないか。
俺は聞きたいんだ。
一人でも、中嶋さんがいなくても。
力の出ない手で時間をかけてシャツを脱ぎ、下着を脱ぎ捨てた。悪寒がひどくて慌てて新しい下着とトレーナーを羽織りジーンズを履く。身体はふらつくけれど、さっきまで靄がかかっていた頭はいつの間にかすっきりしていた。
部屋から出て、外に出る前に俺はもう一度中嶋さんの部屋に赴いた。そっと部屋の中に入ると、そこは俺が出て行ったままの状態でしんと静まり返っている。
俺はテーブルの上に一枚のチケットを置いた。
渡すはずだった中嶋さんの分のチケット。
今日どこに行くつもりだったのか、これを置いておけば中嶋さんに伝えられるだろう。
そして、情けないけれど。一人で行くと決心しておきながら、俺はまだ期待しているのだった。来てくれると思っているわけじゃない。
多分このチケットを中嶋さんが見つける時には、公演は終わっているか、間に合わないだろう。だけど、少しでも行きたかったと思ってもらえたら。それだけでも渡せてよかったと思うから。うれしいと思えるから。
自分のチケットをポケットにしまって、俺は部屋を出た。


電車の揺れで胃の中のものがかき混ぜられる感覚に、ひどい吐き気がしてきた。ドアの横の手摺にしがみつき、身体をもたれさせる。数駅の距離なのにとても遠く感じる。ただ到着することだけを考えて目を閉じた。窓から移る流れていく景色を見ていたら目が回りそうだからだ。
ようやく目的の駅に到着すると、最後の力を振り絞って構内のトイレに駆け込み胃の中のものをすべて吐いた。目が回るのは治ったけれど、気分の悪さは治まらない。
駅から出ると、ふきつける風が冷たくて汗をかいた体が芯から冷えていき、自分の身体を抱きしめた。のぼせた頭には気持ちいいかと思ったけれど、更に温度が上昇していくような感覚がして、足元もふらついてうまく歩けない。とにかく体が重くて、目的の会場は駅前だったけれどとても遠く感じる。何度も自分の足が止まっていることに気が付いては足を動かした。
会場は、すべてがガラス張りになったビルの一階で、ホテルのロビーのような小さな建物だった。ロビーにはたくさんの花や今日のコンサートのポスターが貼られていて、外の入り口付近から前の歩行者道路には開場を待つ人たちでごったがえしている。皆俺より年上の大人ばかりだ。俺は歩行者と車とを分ける道路の手摺にはたくさんのお客さんがもたれていたけれど、一人分入れそうな隙間を見つけて俺はそこに背をもたれさせた。
開場に間に合ったみたいでほっと息をつく。無事に来れてよかった。周りは賑やかだけれど俺はもちろん誰とも話さずぼうっと明るく照らされた会場の入り口を見ていた。
周りは賑やかで、たいていの人はこの会場の前で待ち合わせをしているらしく、俺と同じように手摺にもたれて時計を何度も見ていたりする。
そういえば、俺中嶋さんと待ち合わせとかしたことがなかった。
もし今日ここで待ち合わせすることになっていたら、きっと誰よりもそわそわして落ち着かなくて、皆から変に見られていたかもしれない。いや、もしかしたら時間にうるさい中嶋さんの方が先に来ているかもしれないな。
怖いけれど、わざと待たせてみたい。俺と違ってここみたいな大人が集まる場所にも溶け込んで、俺を待っている姿をこっそり覗いていたい。中嶋さんが俺一人だけを待ってくれている、それだけでも幸せだと思うんだ。
そして俺はどんな人混みの中でも、すぐに中嶋さんを見つけることができるだろう。
俺が中嶋さんを待っているのも幸せに違いない。いつ来るのかとそわそわしながら、中嶋さんの姿を探している時間、来てくれた時の喜びは簡単に想像できた。
俺に向かって歩いてきてくれる中嶋さんを、いつか見られればいいと思った。
楽しい想像をしていると先ほどまでのつらさが消えていき、更に顔が笑っていたみたいで慌てて俯いて顔をひきしめる。その時会場の入り口付近がざわめきだして、周りの人達も入り口に向かい始めたので身体を浮かせた。どうやら開場の時間になったようだ。
もたれていた体を起こし足を踏み出そうとしたとたん、見えていた視界が急に下がった。
気付いたら膝が道路についていた。立ち上がろうとしても身体に全く力が入らない。
驚いて自分の身体を見下ろした。
…どうしたんだよ、今になって。
もう一度立ち上がろうと膝に力を入れても、地面についた手が肘から曲がってしまいどうにもならない。尻をついてから勢いで立ち上がろうとしても身体のだるさは限界にきていたらしく、そんな力など残っていなかった。
どんどん周りの人がいなくなっていく。開場したビルの中に消えていく。
ここまで来れたのに。もうすぐ始まってしまうのに。
どうして身体が動かないんだよ。
「…く、そ…っ」
風邪なんかでどうしてこんな目に合わなくちゃいけないんだ、…もう十分じゃないか。
何度も自分に悪態をつきながら身体を動かそうにも、座り込んだままの身体を手摺にもたれさせたのが最後だった。人が次第にいなくなっていく、一人だけ取り残されていく。
見ていられなくて目を閉じた。閉じた目尻から涙が頬を伝った。
…少しだけでいい、聞かせて下さい。俺、どうしても聞きたいんです。
…お願いします。誰か、聞かせて下さい。

「啓太!」
誰か俺の名前を呼んだような気がして、ゆっくり首を動かすと、道路の向こうから誰かがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。視界が狭くてはっきり見えない。一生懸命目をこらしていると誰かに肩を掴まれ、見上げると来るはずのない顔がそこにあった。
口を開けて何か言っているのに、その内容はわからない。その人の名前を言いたくても声が出ず、誰かに体を抱き上げられて体が宙に浮いた時、とうとう視界が真っ白になった。


いろんな声が聞こえては身体が揺れるのを感じる。
人って生まれてから死ぬその時まで、最も長く機能しているのは聴覚だって聞いたことがある。生まれてからまず耳で世界を知り、死ぬ最後の瞬間まで耳は聞こえているそうだ。今の俺は聴覚だけが働いているけれど、耳を澄ましても何を言っているのか理解はできない。その中に俺が一番好きな声が混じっていて、その声だけを必死で追っていると数度目かの深い眠りがやってきた。
目を覚ますと、白い天井が目に入った。
ここはどこなのかとしばらく見つめて、毎日見る自分の部屋のそれだとわかっても、それ以上何か考えるということができない。何故か右肘の辺りに痛みがあって、なんだろうと肘を上げると小さな赤い点がある。
「…気分はどうだ」
低い声が聞こえてきてゆっくり頭を動かすと、そこに中嶋さんがいた。わけがわからず見つめていると、中嶋さんが近づいてきて俺の側に座った。はっきりと顔が見える。声を出そうとしてもうまくいかない。
「……お…れ……」
どうして俺は寝ていて、中嶋さんが少し眉を寄せて自分を見ているのか思い出すのにはしばらくかかった。
多分俺は倒れて、中嶋さんに助けられたのだろう。俺は熱を出していたはずだ。
「病院で薬を打ったから熱は治まるはずだ」
「…病、院……」
もう一度肘を見つめると、赤い点は注射の跡に見える。俺…病院に連れていかれた事も気が付かなかったんだ。
「入院する程ではないそうだ、今日はおとなしく寝てろ」
確か、中嶋さんは俺にすごく怒っていたはずなのに、何事もなかったかのように俺に話をしてくれている。中嶋さんがこの部屋に俺を運んできてくれたんだろうか。
運んできた?…一体どこからだったんだろう。
首を動かすとベットの前に置かれたテーブルが視界に入り、その上に小さな紙切れを見つけてなんとなく見つめる。紙くずのように見えるのに、何故か目が離せなくなる。
…コンサート。
突然脳裏に蘇ってきた記憶。
そうだ、俺コンサートに行くはずだった…!
慌てて立ち上がろうとすると大きく身体がぐらついて、ベットから落ちる寸前に中嶋さんが俺の身体を支えた。
「俺、行かなきゃ…!」
掴まれた腕を振りほどき離れようともがいても、中嶋さんの身体はいっこうに離れない。焦って時計を見ると公演時間はとうに過ぎているどころか、夜中12時を過ぎていて唖然とした。
「そんな…っ!」
とにかく急がなければと中嶋さんを突き飛ばし、今度はベットから出て立ち上がりドアへと駆け出そうとした。だけど数歩進んだ所で力が抜けてへたりこんでしまう。
「……諦めろ」
背後で聞こえたその言葉が胸に突き刺さる。跪いたままの俺はそこから動けないまま…事実を受け入れることができないでいた。もう遅い…間に合わない。
「いつでも行けるだろう」
「だって!今日しか…!今日で最後だって…っ」
床を見つめたまま俺は叫んだ。中嶋さんはわかってない。俺がどれだけ行きたかったか、聞きたいと思っていたか。
怒りをぶつける筋合いじゃないってわかってる、こんな事態を招いたのは自分だ。どれだけ泣いたってバカなことをしたのは自分なんだ。でも俺の気持だってわかってもらいたかった。
見られたくなくて両腕で顔を覆って涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠しても、漏れる声だけは抑えられない。
「中嶋さんにはわからない…っ!」
そう叫んだ時、腕を掴まれ中嶋さんの方に振り向かされて抱きしめられた。驚いて言葉を続けられない俺は中嶋さんの身体にすっぽりと覆われる。背中に回された腕と身体の暖かさにしばらくの間包まれて力が抜けていく。
頭を撫でられて驚いて身体をびくつかせると、耳元で中嶋さんが言った。
「…わかったから、だから泣くな」
暖かな声の響きが全身を伝っていく。俺は中嶋さんにしがみついて叫んだ。
「初めて、初めて連れて行ってもらった時、聞いた曲だったから…っ!」
頭を撫でてくれる手は俺の言葉を促すようにやさしい。
「だから、もう一度聞ければいいなって…中嶋さんと二人で…なのに、なのに…っ」
抑えきれない嗚咽が漏れたとたん、俺は声をあげて泣いていた。新しく溢れてくるのは自分自身への怒りと悲しみと後悔の涙だ。
「…ごめんなさい…っ、俺、俺…っ」
大きな手が俺の額を包み、至近距離で見つめられる。
「……無駄な心配をさせるな」
その声に棘はなく、僅かな痛みを伴っているように聞こえて、溢れる涙は勢いを増して止まらなくなった。
…中嶋さんに迷惑をかけたんだ。心配させたんだ。
何度も謝ろうと声を出しても言葉にならないのに、俺の言いたいことがわかっているかのように、中嶋さんは何度も何度もあやすように背中を撫でてくれた。
いつも、俺ばかりが空回りをする。
中嶋さんのことが好きで好きで、先のことを考えずに行動してしまう。
いつかそれで中嶋さんを失う時が来るかもしれない。俺に匙を投げて、去っていく時が来るのかもしれない。だけど俺はどこまでも追いかけるだろう、みっともなく泣きながら、謝りながら、いつまでも。
ようやく気持ちが落ち着き、力をなくしてもたれかかる俺の身体を中嶋さんが抱き上げてベットに運んでくれる。
「もう寝ろ、今夜はここにいてやるから」
中嶋さんの腕を掴んで離さない手の甲に、大きな暖かい手がそえられた。
安心して、俺は言われるままに目を閉じた。

音楽が流れている。懐かしい曲。あの店に俺はいた。
俺の隣で中嶋さんは流れる音楽に耳を澄ませている。そんな中嶋さんを俺は見つめている。
何度目かの浅い眠りからふと目を覚まし、店の映像が消えて部屋の天井が映った。
けれど流れていた曲だけは何故かまだ聞こえている。耳を澄まさなければ聞こえないぐらいの小さなものだけれど、確かにすぐ近くで聞こえているんだ。
とても聞き覚えがあるはずのに、どこかいつもと違う。その音がよく聞こえるように耳を澄ましてみる。
かすかに流れてくる音楽は声だった。
…誰かの口から口ずさまれているんだ。
耳に澄み渡るようで、落ち着く低音のリズム。
……ジャズ、だ―――
驚いて腰を浮かすと声が消えた。
「…大丈夫か」
俺に近づいてくるのは、始めて見る心配そうな顔をした中嶋さんだった。
夢が醒めたような感覚。
ゆっくり首を動かして頷くと、また大きな手が俺の頭を撫でていき、その気持ちよさに俺はもう一度目を瞑った。言葉にしたいことがあるのに何も言うことができないまま、俺はまたゆるやかな眠りに落ちていきそうになる。
中嶋さんの顔が俺の顔に近づいて、額に冷たい唇が触れた。おめでとう、そう言われたような気がするけれど、どうしてそう言われたのかその時の俺にはわからなかった。
そしてまた、部屋の中で…夢の中で、小さな声が音程を刻み始める。低い声が俺の身体に伝わっていく。
俺にだけ聞こえる、どんなコンサートよりも最高の―――


次の日の朝目を覚ました時には、もう部屋に中嶋さんの姿はなかった。 けれど、朝方まで側にいてくれたのは覚えている。目を覚ますとすぐに俺の気配に気が付いて声をかけてくれたからだ。
立ち上がりふと机を見ると教科書とノートが数冊積み上げられていて、なんだろうとノートをめくってみると俺の字ではない几帳面で綺麗な文字がびっしりと並んでいる。
「…なんだ…っ?」
驚いてよくよく見ると、出されていた課題とはまったく関係のない、他の教科書の問題すべての回答が中嶋さんの文字で答えられているのだった。
「…中嶋さん…っ!」
きっとすらすらと答えていただろう。中嶋さんにとってはレギュラークラスの教科書など簡単すぎるはずだ。熱を出した俺の為にしてくれたことだと、いっそのこと思ってしまいたい。
だけど、俺の文字を上書きするかのように赤文字で訂正され、そこから明らかに別人が答えているこの完璧なノートをどうしろっていうんだ。
呆然としてノートをめくり続け、最後のページの端に歪んで書かれた英語を見つけた。
『HAPPY BIRTHDAY』
まったく誠意の感じないなぐり書きの文字。
…こ…これは絶対にいやがらせだ…!!


あの声も、あの唇も。全部覚えてる。
ひどい誕生日だったけれど…多分ずっと忘れないだろう大切な日になりそうだった。