「熱病 前編」



 日曜日の夜。
 部屋でのんびりベットに寝転がり、本を読みながらテレビの深夜番組を流していたら、そこからジャズが流れてきてふと目を上げる。丁度ジャズコンサートの宣伝が流れていた。
 俺が中嶋さんと初めて一緒に出かけた場所はジャズバーだった。話をしながら、中嶋さんは流れる音楽に耳を澄まし、時折話が止まると少し目を細めて聞き入るような表情をしていたのがとても印象的で。初めて見たプライベートな顔だったから。ジャズは全くといっていいほど知らない世界だけれど、あの日から時々テレビなどで音楽が流れてくる度に、楽しそうな中嶋さんの顔を思い出すようになった。
 あれからあのバーには連れて行ってもらえないけど、中嶋さんは一人で行く時があるんだろうか。俺、曲とか何も知らなかったし、きっと居心地が悪そうに見えただろうから、一緒に行ってもおもしろくないと思っただろうな…。
 テレビでは、有名らしいジャズシンガーが来日するという情報を流している。
 なんとなく見ていて、俺は突然ひらめいてベットから飛び起きる。
 聞いたことのある音楽。それは連れて行ってもらった時に流れていた曲だった。
「電話だっ!!」
 画面に表示された電話番号を大急ぎでメモし、即座に部屋を出て寮に設置されている電話へと走る。
 公演日まであと一週間しかない。7日後の月曜日の夜。5月5日…そうだ、この日は偶然俺の誕生日だ。


 次の日の授業は、いつ中嶋さんにどうやってコンサートに誘おうかと悩み続けたおかげてまったく耳に入ってこなかった。ずっとそわそわして落ち着かない。どうやったらさりげなく、スマートに誘うことができるのか。だけどいつものごとく、何の方法も思いつかないままコンサートのチケットを鞄に忍ばせて学生会室に足を運ぶ。
 ドアを開きながらパソコンデスクに座っていた中嶋さんに挨拶すると、返事は返ってこなかった。返ってこない時は仕事がさしせまっているという合図だ。
 無言のまま俺は与えられていた仕事を初めて数十分。当然ながら語りかける勇気などない。
 『一緒にジャズを見に行きませんか』
 心の中でゆっくりと言ってみた。言葉にしたら中嶋さんはなんて答えるだろう。もしかしたら用事があるとか、好きな曲じゃないとか言うんじゃないだろうか。その可能性が大きい気がする…。
「あ…あの…、中嶋さん」
 パソコンを触っていた中嶋さんは手を止めず、画面を見つめたまま「何だ」と小さく答えた。その声がやけに低くて怯むけれど、息を吸い込んで一気に言った。
「仕事進んでますか?」
 …睨まれもしない、完全な無視。
 バカじゃないか俺…。王様に逃げられて一人で頑張ってる中嶋さんに進んでるのかって聞く方が失礼すぎる。当然更に不機嫌にさせてしまって、今コンサートの事を切り出すのは完全に不可能になってしまった。自業自得だ。
 中嶋さんに無視されたまますごすごと一人で学生会室を出る。学園を出たとたん、大きな溜息をついてしまった。
「……だめだよ、なあ…」
 俺と中嶋さんは多分付き合っているんだと勝手に思っている。デートに誘うことだっておかしくないと思っている。だけど中嶋さんには恋人同士だからとか、そうじゃないからなんて理由のルールはちっとも通じない。何を聞くのもお願いするのも緊張して、ためらってしまう。不安なのはいつまでも変わらないだろうな…。

 今週の学生会は毎日寮の夕飯に間に合わない時間に帰る程の忙しさだった。王様もいつも以上の般若顔の中嶋さんに恐れをなして、週末になると素直に学生会室にこもっている。俺は出来る限りスムーズに仕事が進むようせわしなく二人の間を雑用で走り回っているだけだ。私語をはさむ暇なんてない、というかはさめるような空気じゃない。
 結局、すぐに取り出せるようにズボンのポケットにしまいこんだチケットが取り出されることなく、今日は既に日曜日の朝。今週は土日共朝から晩まで仕事だ。
 あと2日でコンサートの日だというのに。だけど、このまま仕事が長引けば月曜日も学生会室にかんづめかもしれない、そう思うと更に言い出せない。「行っている場合じゃない」と言われる可能性大なのだ。
 日曜日で閑散とした学園の学生会室のドアを叩いた。
「よ、啓太!!」
 そっとドアを開けたそこには王様が一人で椅子に座って書類を見ている。見渡して見る所中嶋さんの姿はない。
「どうやら今日で終わりそうだ、つきあわせて悪かったな、啓太」
 返事もせず部屋中を首を回して見ていると、王様が小さく笑った。
「ヒデなら風邪でダウンしてるぜ」
「…えっ!?」
 意外な言葉に俺は何度も聞き返してしまった。
 ここ数日の無理が祟ったのか、なんと中嶋さんが風邪をひいて、熱を出して寝込んでいるというのだ。
 あの中嶋さんが…?申し訳ないけど信じられない…。
「鬼も風邪を引くときはあるわな。というわけで俺は一人で仕事してるわけだ、ヒデのおかげで今日は俺と啓太で十分…」
「すいません王様、俺帰ります!!」
 呆然と突っ立っている場合じゃない。
 俺が今できること、それはたったひとつだ。


 コンコンと中嶋さんのドアをあまり音を立てないようにノックしてみる。もしかしたら寝ているかもしれない。だけど中で小さな返事が聞こえたような気がして、そっとドアを開けてみた。室温が高くて、熱がある人の部屋独特の澱んだ空気を感じる。
「…中嶋さん…」
 短い廊下を恐る恐る進み、部屋の隅に置かれたベットの上を見ると、そこには中嶋さんが横になっていた。憔悴した顔。
 心の隅ではまだ、中嶋さんが熱を出すなんて冗談なんじゃないかと思っていた、そんな自分を心から悔やんだ。本当に中嶋さんは熱を出している。始めて見る覇気のない表情に一気に血の気が失せてくる。思わず膝をついてベットに縋り付いて叫んだ。
「中嶋さん!!しっかりしてください、中嶋さんっ!!」
 寝苦しいのかベットのシーツは乱雑で、掛け布団を胸のあたりまで被っていたけれど、来ている寝着はボタンがはだけて白い首筋と胸元を見せている。目を閉じたままの表情は苦しげとまではいかないが熱のせいで顔が赤い。近くで見てますますいつもとは全く違う中嶋さんの状態に、錯乱した俺は中嶋さんの腕を掴んで揺さぶった。
「中嶋さん!!中嶋さんっ!!」
「…………うるさい……」
 呟くような低い声が聞こえて、驚いて顔を見ると、目を閉じたままの中嶋さんの口が動いている。今度ははっきりと声を聞くために顔を近づけてしばらく待っていると、中嶋さんの眉がしかめられて今度ははっきりと「うるさい」と言って、安心した俺はへなへなと全身から力が抜けてしまい、背を曲げてベットの縁に額をつけて大きな溜息をついた。
「…よかった……っ」
「……死んでるとでも思ったか」
 覇気はないけれど、いつもの口調の言葉に少しだけほっとして中嶋さんを見る。薄く目を開いているけれど表情は固い。
「そんなわけないじゃないですかっ!俺、びっくりして…っ!中嶋さんが熱出して休んでるって王様から聞いて、まさかって思って…。俺、何でもします、何でも言って下さい!治るまで一緒にいますから!」
「…もう山場は越えた。一晩寝れば治る」
「ダメです、熱が醒めるまで俺が看ます!」
「何もすることはない、移るから部屋に戻れ」
「嫌です!!だって心配するのは当たり前じゃないですか!中嶋さんを置いて部屋に戻ったって寝られるわけないです!ここにいさせて下さい、一緒にいたいんです!!」
 いつもなら負けている言葉のやりとりでも、今回ばかりは俺の必死さが勝っていた。しかも中嶋さんの口調は熱のせいで力がなく、聞いているだけで相当熱のせいで弱っているんだとますます実感してしまう。何度かのやりとりで先に折れたのはやはり中嶋さんだった。
「…わかったよ。好きにしろ。そのかわりこき使わせてもらう」
 うれしくてはい、と返事をしたと同時に、中嶋さんの命令が飛んだ。
「まず部屋の空気を入れ替えてくれ、それからすぐスチームと部屋の温度を上げたらシーツを取り替えてくれるか」

 病人と看護者のそれのように、ベットの横に腰掛けて看病する…というわけにはいかなかった。それから俺は、数々と告げられる中嶋さんの要求に必死になって答え、部屋の片付けから洗濯まで、寝ながらもひとつひとつに厳しい目を光らせて監視している中嶋さんに何度も注意を受けてはやり直しを続けた。
 そして現在は中嶋さんの椅子に座り、机の上の教科書と格闘している。
「…わかるわけないじゃないですか…」
 明日提出する数学の課題をしろと言われても、その命令自体無理がありすぎる。中嶋さんの授業は殆どアルティメットクラスで、俺はすべての教科がレギュラークラス。しかも学年は2年も違うのだ、はっきりいってどんな文章でどんな問題が出されているのかも理解できない世界で、解く以前の問題なのである。
「わかるところまででいい」
 ていうか、どこがわかるかもわからないんですけど…。そう言うとバカにされそうなので俺は出来る限り空白を埋めようと躍起になる。とにかく答えがわからなくても埋めればいい。間違っていてもそれは俺なんかにさせた中嶋さんが悪いのだ。
 しばらく必死になって教科書と問題用紙を凝視して、ふと顔を上げて中嶋さんを見ると…小さな寝息を立てて眠っているのが見えた。ずっと俺の事を監視していると思っていたのに。
 音を立てないように椅子から立ち上がり、ベットに近づいて顔を覗いてみる。俺を監視する為にかけた眼鏡がそのままで、俺は手をのばして起こさないようにそっとその眼鏡を外してあげた。そうされても気付く様子がなくて、俺を監視する為に起こさせたことで逆に迷惑をかけたんだと、今頃になって後悔した。もしかして、俺を心配させないように気を使ってくれていたんだろうか。
 首まですっぽりと覆うように掛け布団をかける。そのまますぐに寝息を立て始めるのを確認してから、俺は膝をついてベットに両腕を乗せて中嶋さんの顔をじっと見つめた。
 眼鏡を外している顔も、熱を出して覇気のない表情も見たことがなかった。そしてこんなにゆっくりと俺だけが中嶋さんの寝顔を見つめているのも初めてだ。
 不謹慎だけれど、少しうれしくて、ドキドキしている。
 一度でいいから、穴が開くまで中嶋さんを見つめていたいと思ってた。起きて元気な時にそこまで見つめていたら怒られるか怪しまれるか笑われるか、とにかく満足するまで見させてくれることなんてないだろうから。
 端整な横顔。すっと伸びた鼻梁と、緩く結ばれた薄い唇。心の奥まで見透かされそうな瞳は長い睫毛の奥だ。硬質なかんじのする肌は、触るととても手触りがいいということを最近知った。形のいい額と、そこから流れる艶のある少し癖毛の髪。気付かれないようそっと右手で髪に触れてみた。思ったよりも柔らかくてずっと撫でていたくなる。
 規則正しい寝息を聞いていると愛しさがこみ上げてくる。愛しさなんて言ったら中嶋さんに怒られるだろうな。
 でも、俺…こんなに綺麗な顔をしている人を見たことがない。
 胸元まで下がってしまった掛け布団をかけなおして机に戻り、もう一度ペンを取った。時計の秒針が聞こえてくる。そして小さな寝息と。音はそれだけ。俺と中嶋さん二人だけに流れる静かな時間。
 …どうしよう、…今とても幸せかもしれない。


 夜の9時を過ぎた頃、食堂を借りて必死で作ったおかゆを持って部屋に戻ると、中嶋さんは目を覚ましてベットの上で腰を起こしていた。
「おかゆ作ってきたんですけど……食べられますか?」
「…ああ」
 完全に目が覚めてはいないようで、熱を帯びた瞳はまだ宙を彷徨っている。俺は机の椅子を引っ張りだしてきてベットの横に持っていき、そこに座っておかゆを入れた鍋を持ち、スプーンでおかゆを掬いそれを中嶋さんの顔に近づける。
 その時まで気付かなかったのだ。
 中嶋さんの唇が開いて、俺が差し出したおかゆを素直に口に入れたのを見たとき、心臓が大きく脈打って、体中の血液が頭に上ってきた。
 …な、な、中嶋さんが…俺に食べさせてもらってる…!!
「わっ!」
 手が大きく震えてしまい、布団の上におかゆを溢してしまった。
「す、すいませんっ!」
 慌てて拭う間中嶋さんは何も言わないでいる。緊張する手をなんとか動かしながらもう一度スプーンを口に持っていくと、やはりゆっくりと口を開き、誘われるがままおかゆを食べた。
 感動でほろりと涙が出てしまいそうだった。誰の手助けも必要としない中嶋さんのこんな子供のようなしぐさを見ることが出来るなんて。心の奥底で中嶋さんが熱を出したことを神様に感謝した、不謹慎だとわかっていても仕方がない。こんな貴重な体験もう二度とないだろう。
 中嶋さんが我にかえって怒り出さないよう細心の注意を払いつつ、綺麗な口を開いて俺のおかゆを食べてくれる表情を目に焼き付けようと、全神経を集中させてスプーンを動かした。うつろな目は熱を帯びていて色っぽい。
 かわいい、なんて言ったら一生口をきいてくれないだろうな…。
 至福の時間を俺は心ゆくまで満喫した。

 薬を飲んでもらい、その後しばらくの間中嶋さんは静かに眠った。その間も俺は少しでもその表情を満喫しようとベットにかじりついている。時々中嶋さんが目を覚まして、俺が側にいるのを見つけては「お前も寝ろ」と声を掛けてくれた。熱があるのに俺のことを気遣ってくれるのがうれしくて、眠気なんてまったく起きなかった。それに寝ている場合じゃない、中嶋さんの寝顔を頭に焼き付けるまでは寝るわけにはいかないのだ。
 それに、俺は…大事な事を言えないままでいる。
 いつも忙しくしている中嶋さんのことだから、今この最後の機会を逃すときっともう誘うことはできないと思う。早く言わなければと思いながら、もうコンサートは明日に迫っていた。中嶋さんがこのまま治らなかったらもちろん諦めるしかないけれど。
「…まだいるのか、もういいから部屋に戻れ」
 はっきりとした声が聞こえて中嶋さんを見ると、首を俺の方に向けている。
「いやです…、だって、治ってほしいんです…絶対に。そうじゃないと……そうじゃないと…」
「なんだ」
 俯いてそれから後を言い出せない間、中嶋さんはずっと無言だった。言う気力がないせいなのかもしれないけれど、それが俺には次の言葉を根気よく待ってくれているような気がして、いやそう思うことにして、俺は勇気を振り絞って言葉を続けた。
「明日の夜、中嶋さんと一緒に…行きたい所があるんです」
「…どこだ」
 どこから言い出せばいいのか混乱してしまいまた口ごもってしまう。「まあいい」と言ったその声に顔を上げると、僅かだけれど微笑んでいる。
「…明日には熱は下がる」
 その言葉は、俺と約束してくれたっていうこと。
 不安そうにしていた俺に気付いてくれたのだろうか、その声はむしょうにやさしく聞こえた。元気がないだけなのかもしれないけれど。俺はとてもうれしくなって中嶋さんにただ笑顔で見つめ返す。
「啓太、すまないが濡らした熱くしたタオルを持ってきてくれるか。顔を拭きたい」
 俺は勢いをつけて立ち上がり洗面器を取りに部屋を飛び出した。その時の俺の足取りを見た人は、きっと宙に浮くように見えたに違いない。
 あとは中嶋さんの風邪が治って元気になってくれること。それだけだ。
「タオル濡らしてきました!!」
「…やけに楽しそうだな…」
 うさんくさそうに、嫌そうな顔をして俺を見つめているけれど、上機嫌になってしまった俺は気にもならない。鼻歌を歌いながら熱いお湯をはった洗面器につけていたタオルを絞り、中嶋さんの着ている青いパジャマを脱がそうとすると身体を逸らされる。
「身体はいい、顔だけで十分だ」
「でも、身体も拭かないと汗かいてるし……」
 にやけたままの俺を見上げるその顔はいじわるそうな笑顔が張り付いている。
「襲われそうだからな、遠慮しておく。今襲われたら負けるかもしれんからな」
「お、襲いませんよっ!」
 焦って否定すると、ほお、といつもの不遜な声がして肩をすくめながら言った。
「…さっきから何を一人で興奮してるんだか」
「…ほ、ほ、ほっといてくださいっ!」
 図星をつかれて顔が真っ赤になってくるのがわかる。…やばい、中嶋さんの調子が元に戻り始めている。
「ほら、早くしろよ」
 目を閉じて俺のタオルを待つ中嶋さんの顔を、そうっとタオルで撫でた。頭が動かないように左手で耳から後ろを支えながら、額から目尻へ、瞼から鼻筋へと滑らせていく。
 顎を少しだけ上に上げて俺にされるがままになっている中嶋さんを見ているだけで、また楽しくて楽しくて仕方がない自分がいる。
 こんなに楽しいのなら、何度でもしたっていい。俺、中嶋さんの為ならどんな看病だってできると思う。
「…あの、…中嶋さん…」
 頬をタオルで拭きながら、俺は耐えられずに言った。中嶋さんは返事をせず、俺の次の言葉を待っている。
「…キス…して、いいですか……?」
 閉じていた目がゆっくりと開いて、至近距離で目が合った。熱を帯びているけれど、それさえ武器にして俺を誘っているんじゃないかって思ってしまう程魅惑的な瞳。射止められて呼吸を忘れる。
 恐る恐る顔を近づける。
 中嶋さんは顔を逸らさず、俺の唇を熱いそれで受け止めてくれた。

 深夜、中嶋さんが完全に眠りに落ちた後。
 俺は中嶋さんに気付かれないようにそうっと中嶋さんの布団の中にもぐりこんだ。中嶋さんの肌にもっと触れていたくて考え付いた方法だ。
 だって、こうやって一緒のベットに寝ることも滅多になかったから。
 まだ熱のある中嶋さんの身体はいつのまにか冷えていた俺の身体をすぐに温めてくれた。小さな寝息がすぐそこで聞こえる。上下する胸も、中嶋さんの匂いもすべてがうれしくて。
 安心しきった俺はすぐに深い眠りに落ちていった。

 




(→後編)