□幸運ノ重クサリ 3




 次の日の土曜日、平日よりも早起きしてせわしなく身支度を整える。中嶋さんが留学するかの返事をするまで残り二日となり、一分一秒だって無駄には出来ない状況だ。
 部屋のドアを開けたとたん、偶然和希と遭遇して驚いてしまう。休日というのに制服姿だ。
「えらく早いな、どこかに出かけるのか? 啓太」
「和希こそ制服なんか着てどこに行くんだよ」
「ああ、会議で学園まで行くところなんだ。私服だとまずいだろ?」
 廊下に出て、途中まで一緒に行こうと(といっても三年生の部屋へと上がる階段までなんだけど)話をしながら一緒に歩く。
「和希、忙しそうだなあ」
「最近はそんなことはないよ、急遽今日の昼から中嶋さんの面接をすることが決まってさ、理事会の打ち合わせをしなくちゃいけないんだ。なにしろ急に――」
「今日!? 和希、それホントかよ!」
 大声を上げて、和希の両腕を乱暴に掴んで和希が目を丸くする。
「あ、ああ……、さっき俺に中嶋さんから電話があって、もう決めたから面接の期日を早めてくれって……」
 予想もしていなかった事態を把握するまで長い時間を要して、次第に頭の中がショックで真っ白になり、身体の力が抜けて掴んでいた和希の腕を離し立ち尽くしていると、心配そうな和希が何度も呼びかける。
「おい、啓太、啓太! 大丈夫かっ?」
 俺の努力はすべて空振りだったどころか、中嶋さんの決心を早める結果になるなんて。何がいけなかったんだろう、昨日の俺の行動の何かが原因なのか。
 だけど、今ここで俺の失敗がどこだったのかさらっている暇は残されていないことに気がつく。最悪の事態は何度も頭の中でシュミレーションしたはずだ。今は何でもいいから実行に移さなければ、最後まで抵抗しなければ。
 ようやく平常心を取り戻し、深く息を吸い込んで何事もなかったかのように和希に話しかける。
「ごめん、ちょっとびっくりしすぎたんだ。それより和希、よかったら俺が中嶋さんに面接時間と場所を伝えておこうか? 丁度今から学生会の仕事で中嶋さんに会いに行くから」
 心配そうな視線に、嘘が見破られないよう微笑んでみるけど、ぎこちなくひきつっているかもしれない。
「……本当に大丈夫か? だったらいいけど……。じゃあ伝えておいてくれるか、教職員校舎の第一会議室で、今日の三時に」
「わかった、ちゃんと伝えておくよ。あとさ、面接って和希もメンバーに入ってるのか?」
「いや、俺は入ってない。後輩がいたらやりにくいだろ。面接するのは理事会の幹部の三人だと思う」
「その幹部って、中嶋さんを見たことあるのか?」
「いや、ないと思うけど……なんで?」
 別になんでもない、と曖昧に笑って返すと、それ以上の追求から早く逃れようと次の通路の分かれ道で早々に別れを告げ、和希の姿が見えなくなってから俺は一気に階段を駆け上がった。
 目指すのは中嶋さんの部屋じゃなく、成瀬さんのいる二年生のフロアだ。


 土曜日でも、体育会系のクラブは活動しているらしく、グラウンドからたくさんの学生の声が聞こえてくる。だけど今俺がいる体育倉庫は、中嶋さんに初めて連れ込まれた時と変わらず、辺りに人影はまったくみあたらない。
 正午を丁度過ぎたころ、分厚い鉄の扉の前で五分ほど待っていると、制服姿の中嶋さんが足早にこちらにやってくるのが見える。
「テニスボールが盗まれただと? 成瀬はどうした」
「グラウンドを探してくるって言ってました、だから俺たちはもう一度倉庫の中を探そうと思って」
 俺の説明を聞きながら、中嶋さんがうざそうに扉に手をかけて、錆びた鉄の擦れる大きな音が周囲に響き渡る。先に中嶋さんが入り俺も続いて中に入ると、明るい外とはうってかわった薄暗さと埃臭さに顔が自然に歪んでしまう。それとは正反対に、ここで中嶋さんにされた事も同時に思い出す。跳び箱の場所もあの時もままだ。
「ここから盗まれただと、ボールだけか」
「……はい」
「そんなバカなことあるわけないだろう、成瀬の勘違いじゃないのか」
 苛立たしげに周囲を見渡している中嶋さんに目を離さないまま扉を閉めると、そこから動かずに中嶋さんに話しかける。
「そういえば、今日中嶋さんが面接を受けるって聞きましたけど、予定が早くなったんですか」
「ああ、さっさと決まったほうが準備も早められるしな。とくに学生会の仕事の引き継ぎがどれだけかかるか……」
 倉庫の壁の棚一面に並べられたあらゆる体育関係の道具を探りながら、中嶋さんが埃にむせて咳をする。意識があちらに集中しているのを確認しながら、気付かれないように手に持っていた幅十センチ程の大きな鈍い金色の錠前を、内側の扉の取っ手にかける。先程まで外側からかかっていたものだ。成瀬さんからの用事なんて何もない。俺が倉庫の鍵を借りただけだ。
 ガチャ、と大きな音がして中嶋さんが振り返ったときには、鍵をブレザーの内ポケットに隠した後だった。
「……何だ? おい、そこで今なにをした」
 俺の不穏な空気に気がついて、中嶋さんが俺の方に近づいてくる。俺は扉に背中に向けて、中嶋さんに対峙する。
「行かないって……アメリカなんて行かないって言うまでここから出しません」
「なんだと?」
「ここから出さないって、そう言ったんです」
 二メートル程離れた場所で中嶋さんが立ち止まり、顔を上げ中嶋さんを見据える俺と目が合う。はじめは軽く驚いただけの目が、俺がついていた嘘を見抜いて、やがて静かな怒りが宿っていく。
 長い沈黙のあと、俺を睨みつけたままようやく中嶋さんが口を開いた。
「……なんのつもりだ、啓太。説明しろ」
「きっと説明してもわかりません。俺がどんな気持ちでいるか、あなたは絶対にわからない」
 留学のことを言っているのだと気付いたらしく、目を細めて俺を睨みつける。
「ここで嘘でも行かないと言えばいいのか。出る方法などたくさんある、お前を脅して鍵を奪うことも、言うことを聞かせる事も」
 低く地を這うような声に、倉庫の中だからんじゃないひんやりとした空気が身体にまとわりつく。中嶋さんがポケットから取り出した携帯から目を逸らした。
「それとも監禁されたと言ってやろうか。……すべて穴だらけの計画だな。こんなバカげた真似に何の意味がある、無駄だとわかってやっているのか」
「そうです、全部わかってます。だからやってるんです、もうこれしかないんだ」
「この俺を怒らせてか。後でどうなるか覚悟しているんだろうな」
「別れるというならそれでもいいです、どうせもう会えなくなるんだ。嫌われようがもう一緒です」
 会えなくなるという俺の言葉に、思い出したように眉を吊り上げる様子を見て、中嶋さんはようやく、俺の行動が何を意味しているのか悟ったようだっだ。
 そう、今になって、ようやく。
 留学してほしくないという俺の叫びに耳を傾けたのだ。
「……バカげた真似を……」
 真実を知り深く溜息をついても、中嶋さんの静かな怒りはますます増していくように見える。腕時計を見て時間を確認したあと、跳び箱のそばに幾十にも積まれたマットの上に腰を下ろし、中指でメガネをブリッジを上げながら再び俺を見据える。
「そこまで覚悟しているんなら、行かないと言わせるまで説得してみるんだな」
 俺はブレザーのボタンを外し、埃だらけの床に構わず投げ捨てて中嶋さんに歩みよる。近づけば殴られるかも、蹴られるかもしれないという思いがよぎったけれど、怯まないと、絶対に引き下がらないと決心したはずだ。
 だけど、足を広げて座る中嶋さんの目の前にかしずき、中嶋さんのブレザーのボタンを外そうと伸ばした手は、笑ってしまうほどに震えていてボタンを掴むことさえできないのだった。
「何をするつもりだ」
「セックスに、決まってるじゃないですか」
「……やはりそれか。お前はそれしか能がないのか」
 蔑むような言い方に、思わず中嶋さんのブレザーを掴んで叫ぶ。
「中嶋さんが言ったんだ! 俺とはセックスしかないって、そう言ったのは中嶋さんの方じゃないですか! それなら、俺はこれで訴えるしかない、そうでしょう……!」
 本当は、ここで行為に及ぶことに意味などないことは、俺が一番よく知ってる。
 中嶋さんが俺とセックスしようがしまいが、俺であっても別のひとであっても、中嶋さんの意思は曲げられないと今回のことで思い知った。
 それでもいい、これは面接時間が過ぎるまでの時間稼ぎ。むなしい俺の行為の目的はそれなんだ。中嶋さんには時間も場所も伝えられていないんだ。
 再びボタンをひっ掴んで、震えが止まらない指に力を入れては失敗し続けるうちに、引き下がれないところまで来てしまったという絶望感と怯えが津波のように襲ってくる。しまいには生理現象なのか、涙が頬を伝いだした。そんな俺を中嶋さんは射抜くような瞳で見つめてくる。
 長い時間をかけてようやくジッパーのボタンまで外し、力ないそこを取り出すといつものように口に迎え入れる。当然のように、それは全く反応を示さず、舌をどう絡めようと、唾液にまみれさせようとも無駄だった。それは俺も同じで、咥えているのに自分のそこも反応すらしていない。
 それでも、俺は教えてもらった愛撫の方法を駆使してしゃぶり続ける。感じなくてもやめるつもりなど毛頭ない。ただ、俺の気持ちが伝わればと思う。
 中嶋さんと離れたくないこと、たとえ今日のことで別れがやってくるとしても、覚悟はしているのだと――
 無機質な体育館倉庫の中で、似つかわしくない濡れた音が響き続ける。
 どれだけの時間が過ぎたんだろう、沈黙を続けていた中嶋さんがやがて口を開いた。
「……啓太は理解すると思っていた。俺たちの関係は距離や時間など関係ないと。ただお前は俺を信じていればいいと。それは間違いだったのか」
 初めて聞く、迷いとためらいが混じる複雑な声に顔を上げると、中嶋さんは声と同じような瞳をして俺を見下ろしている。もしかしたら、俺の抱く心の痛みを理解しようとしていたのかもしれなかった。
「俺は、あなたが好きなんです。だけど離れていれば、あなたの気持ちは絶対に変わってしまう、俺にはわかるんです。だって俺にはあたなを繋ぎとめるものが何もない。俺は、一分でも一秒でも離れているだけで不安になるんです。それが中嶋さんを信じていないことになるならそうかもしれません」
 たとえ中嶋さんが理解できなくても、自分の気持ちは伝えなきゃいけないと思った。中嶋さんは俺の気持ちを疑ってはいないし、俺だってきっと他の誰も好きになれないだろう。一緒にいても離れていても、別れはやってくるかもしれないと反論されるかもしれない。
「……残されるのなら、いっそのこと俺を突き放して下さい。……忘れられたくないんです……!」
 ひとり残されて、俺がどんな思いをするのか。中嶋さんには決してわからないだろう。決して後ろを振り向くことも、誰かを横に座らせることもしないこの人を好きになった時からわかっていたことだ。
「……中嶋さんを繋ぎとめる鎖があればいいのに」
 手の届かない場所にいても、いつでもたぐり寄せれば捕まえられるように。
 探り寄せたその先に中嶋さんがいれば、どんなに細く脆い鎖でも構わない。絶対に手を離さないでいればそこに中嶋さんを見つけられる。
 両手で頬を包まれて、至近距離で顔を覗かれる。怒りは消えたけれど有無を言わせない強い視線とぶつかる。
「そんなものがあっても、人の気持ちは変わる。……啓太、言うんだ。今日の面接の場所と時間をお前は聞いたはずだ。お前の魂胆はわかってるんだ」
「中嶋さん……っ」
 目を見開きまさかと叫んでも、中嶋さんの身体の間から逃れようとしても頭ごと掴まれて身動きができない。
 もうダメなのか、俺の説得はやっぱり無駄だったのか。
「……鍵をよこせ、啓太」
「……っ、……イヤだ……!」
「啓太」
 なだめるように頭を撫でられた隙に、やっとその手と中嶋さんから逃れると、扉の前に落ちたままのブレザーを掴んで中嶋さんから一番離れた倉庫の隅で、ブレザーを抱きしめて座り込む。腕時計はもう約束の二時まであと十五分もない。
 あともう少し、もう少し粘れば俺の勝ちなんだ。
 ゆっくりと中嶋さんが立ち上がり、近づいてくる。逃げようにももう角に追い詰められている状態で、左右を見渡しても隠れられる場所なんてない。とにかく膝を抱え込んで丸くなり、胸との間にブレザーを隠す。
「こないで下さい……っ」
 あと一メートルまで近づいたところで、中嶋さんがしゃがみこみ、まるで犬でもなだめるように右手だけを差し出してくる。
「勘違いするな、啓太。俺は留学を断りに行くんだ」
 驚いて目を合わせると、少し苦笑したような、困ったような顔をされてショックを受ける。
 中嶋さんは嘘をついている。嘘をついてまでここから脱出したいんだと、留学したいんだと。何故かそれが俺にはわかった。痛みで麻痺したかと思っていた心臓がキリキリと軋んで、くじけそうになる、もうやめてほしいと叫びそうになる。
 もう聞きたくないと耳を両手で塞ぎ目を閉じて中嶋さんを遮断すると、今度はいきなり蹴られるんじゃないかと恐ろしくなってきて身体が恐怖で震え始めてしまう。中嶋さんにも真冬に裸にされたが如くガタガタと身体を揺らしているのは気づいているだろう。
 あともう少しなんだ。そうすればこの恐怖と苦痛から逃れられる。
 一秒が数十秒にも感じられるなか、中嶋さんからは何の音もせず、どこも触ってこない。それがあまりにも長い時間になると逆に不安になってくる。
 そっと薄く目を開けると、立ち上がっている中嶋さんの足元が見える。ゆっくりと視線を上に上げると、丁度携帯を取り出して電話をかけようとしているところで、思わず飛び上がり携帯をひったくる。
「……啓太……」
「言います、言いますから……っ!」
 今度こそ、本気で怒っている中嶋さんの声に、俺はとうとう観念して、慌ててブレザーの内ポケットから錠前の鍵を取り出して手渡す。
「寮の第一談話室で、二時からです……!」
 すぐに腕時計を見て舌打ちすると、踵を返し扉の鍵を開け始める。腕時計を見ると、面接まであと五分と迫っている。
「中嶋さん……、中嶋さん……っ」
 何度名前を呼んでも、もうこちらを見ようともしなくて、中嶋さんはあっという間に錠前を外し、大きな扉を乱暴に開け放ち姿を消してしまった。
「中嶋さん!!」



 中嶋さんが手に入れるはずの未来を、チャンスをこの俺が奪おうとしている。
 それがどれだけ重大で罪なことなのか俺はわかっているのだろうか。今この瞬間でも、ふんぎりがつかないでいる。
 でも、ここまできて後戻りもするつもりはない。
 今度こそ、確実に中嶋さんは留学できなくなる。
 中嶋さんが体育倉庫から出ていった直後に、俺も別方向に向かって全速力で走りここまでやってきた。面接まであと一分のところでギリギリ間に合ってよかった。土曜日の職員棟は俺が入ってから誰ともすれ違わないから、今日の面接をする理事会の関係者以外は殆どいないんだろう。よかった、俺のことを知っている先生と出会ってしまったら、ここで何をしているのか絶対に問い詰められてしまうところだ。
 何故俺がはねた髪を撫で付けて、眼鏡をかけ、しかも留学のための面接を受けようとしているのか、バレてしまったら退学どころじゃすまない。
 学生会室と同じ、重厚な木でできたドアの向こうには、理事会の面接官が三人俺を、いや中嶋さんを待ちうけている。頭脳明晰で、なにもかもずば抜けた能力を持つ中嶋さんが、ただの普通の男で、しかも頼りなくバカな答えしか返さないとなれば、こちらから断らなくても留学の話は白紙に戻されるかもしれない。副会長の中嶋英明の名前が汚れても、理事会内だけで済むことだと思いたい。
 ドアの前に立ち、俺は深く息を吸い込んだ。
 これからの数十分の間、俺は中嶋さんになりすますんだ。
『啓太は理解すると思っていた。俺たちの関係は距離や時間など関係ないと』
 倉庫の中で悲しげに言った中嶋さんの声がこんな時に聞こえてきて、もう考えるなと首を振って追い払い、俺は震える手でドアをノックした――



 ドアが叩き破る勢いで開かれて、面接が終了した会議室に入ってきたのは中嶋さんだった。
 髪を乱し、肩で荒い息をしている。ぐるりと部屋の中を見渡して、ふたつ間隔を空けて並べられた長机のひとつに、ぽつんと一人座っている俺を見つけると、大股で歩み寄ってくる。
 中嶋さんは俺の伝えた嘘の場所に行き、誰もいないことを不信に思って和希にこの場所を聞いたのだろう。そして、会議室で面接を受けたのは俺だったと一瞬でわかったはずだ。倉庫で一人泣いているとでも思っていたんだろうか。
 俺の正面に立ちはだかり、すう、と俺を怒鳴りつけるために息を吸い込んだのに、しばらくしても中嶋さんは無言だ。多分、俺が涙を流して空を見つめているのに驚いたんだと思う。ゆっくりと顔を上げると、ぼんやりと、ガラスのレンズごしに怒りをそがれて呆けたような中嶋さんの顔がある。
「……お前……」
 テーブルの上に置かれた、涙が染みこみふやけてしまった留学についての書類を、ゆっくり中嶋さんの方に滑らせる。
「理事会の人から、むこうでの生活のことをいろいろ聞いたんです。そうしたら、きっと中嶋さんでもつまらないなんて絶対言えないだろうなってぐらいすごくいい話で……、楽しそうにしてる中嶋さんが、想像できて」
 明るい自分の将来のためだけに、迷いなくつき進んでいく中嶋さんが見える。
「中嶋さんが楽しいんだったら、俺もうれしいなあって、……単純に、そう、思っちゃって……。あんなに嫌がってたのに、阻止しようといろいろ計画立ててたのに、ほんと、……っ」
 また熱いものが目尻からあふれ出し、目をきつく閉じるけれど、ひくつく肩は抑えられない。
「……絶対断ってやろうって、中嶋さんなんてどうにでもなれって、思ってたのに……っ」
 なにが悲しくて俺は泣いているのだろう。計画が失敗したくやしさ、意思の弱い俺自身、中嶋さんを騙したことへの後悔、数えればいろいろある。
 だけど、多分一番の原因は、最後まで自分の幸せを優先できなかったことに対してだ。中嶋さんがいなくなれば、どれだけ俺がつらい思いをするのか、中嶋さんの笑顔で一瞬忘れてしまったことだ。
「大丈夫です、ちゃんと中嶋さんらしく、演じきりましたから。ほら、俺演劇部だったしこういうの得意なんです。きっと留学できると思います」
 突然、頭上から小さな笑い声が聞こえてきて驚いて見上げると、中嶋さんが声を押し殺しながら本当に笑っていて絶句してしまう。涙も止まって、口を開けたままぽかんと呆けている俺に、目尻に涙まで浮かべた中嶋さんがようやく言った。
「……今回ばかりは最後まで騙されたな。負けたよ、完敗だ。そのお前の格好にもな。それは俺なのか?」
 そう言ってまた笑い始めて、何がおかしいのかと口を開きかけたとたん、完敗という言葉がひっかかり、もしかしてという文字が浮かんでくる。留学に反対するのは諦めたはずなのに、また俺は期待してしまってるんだ。
 中嶋さんが俺の正面までパイプ椅子を持ってきて座り込み、頭が殆ど同じ高さになると、楽しげな表情がすぐ近くで見えて、ほんとうに笑ってる、と今度こそ涙が完全に止まってしまう。
「せっかくの留学のチャンスを、まだ諦めたわけじゃないぞ、啓太」
 尋ねる前にくぎを刺されて口ごもっていると、中嶋さんがポケットから一枚の百円玉を取り出し、俺にかざして見せる。
「……最後のチャンスをやる。いや、俺の将来を、お前と俺で決めるんだ」
 不適な笑みを浮かべる中嶋さんの背後の窓から日が差し込み、中嶋さんの指の中で回転するその銀貨がきらりと輝く。
「……将、来……?」
「俺が勝てば留学は諦める、啓太が勝てば俺はアメリカ行きだ。表と裏、先に決めさせてやる」
「そんな……っ! だ、だって俺……っ」
「お前の運が強いのは承知してる、だからアメリカ行きを啓太の方に賭けたんだろう。それぐらいのハンデはつけさせてもらう」
 コインゲームなんかで未来を決めようとする中嶋さんが信じられなくて、絶句したきり首を横に振り続ける。
 それに、よく考えてみるんだ。俺が勝てばアメリカ行きならば、俺が直感で選ぶ面が多分当たりだと想定するとしよう。それなら、直感で浮かんだ反対の面を俺が言えば、中嶋さんが勝ち、留学は諦めるということなんじゃないのか。
 それを中嶋さんはわかっていて言ったのだとしたら、将来は中嶋さんと俺の二人で決めるんじゃない、本当は俺一人の意思で決まるということだ――
「俺、絶対、絶対にできません、そんなこと!」
 真実を探り当てて更に反対すると、ゆっくりと上半身を俺のほうにのりだしてきて、唸るような低い声に背筋を伸ばしてしまう。
「ここまで俺の留学を阻止しておいて、最後になって怖気づくのか、お前は。男なら最後までやり通してみろ」
「でも……っ! 本当に、本当にいいんですか?そんなこと言われたら、俺……っ」
 俺の反論も聞かず、中嶋さんがコインを高く投げ上げる。眩しさに目を細めながら、中嶋さんの手のこうに落ちてそれが隠される瞬間まで見つめ続ける。
 直感で頭に浮かんできたのは裏だ。これが正解だとしたら、そのまま裏と答えれば中嶋さんはアメリカに旅立ち、高校生活はあと半年とはいえ、日本に帰らずそのままむこうの大学に進んで、俺は一人日本に取り残される。逆に、今ここで表と言えば、中嶋さんの勝ちとなり、晴れて留学はお流れ、俺と中嶋さんはまた一緒にBL学園での生活を続けて、多分その先もずっと中嶋さんに会える日が続くんだ。
 中嶋さんが俺の答えを待っている。
 どちらが幸せなのか、今となってはもうわからない。
 でも――
 もし、細くて脆い鎖が俺と中嶋さんを繋げているなら。鎖は短ければ短いほど、たぐりよせればすぐに中嶋さんを見つけられる。






「……顔、すごく青いんだけど、和希……、大丈夫か?」
 食堂での、いつもの和希との夕食は、今度は和希がどんよりと暗く沈んでいて、心配で気になって仕方がない。
「今日の朝も、また中嶋さんに起こされてさ……それで今度は突然の辞退だろ、今日の会議でどれだけ責められたか……。俺は関係ないっていうのに全然聞いちゃくれないし」
 午後の授業は突然の会議だと言って抜け出していたけれど、疲れきっているのは中嶋さんが原因と知って曖昧に笑うしかない。
「それはまあ、もう終わったからいいんだけど……、いくら考えても解せないんだよ。理事会の連中の言ってることが」
「何が?」
「揃って『あんなかわいい子が副会長をしてるのね』って言うんだぜ? かわいいだぞ? 中嶋さんをだそ? いくらお年をめしたご婦人でも、ちょっとおかしくないか? そこだけがどうしても腑に落ちない」
 そういえば、面接官の二人が上品なおばさんだったなと思い出してみる。
 それは俺なんだよって答えてすっきりさせてあげたいけれど、言えばもっと青ざめるかもしれないと思いながら、もう気にするなとなぐさめてみる。
 和希の背中越しに、食堂に入ってくる王様と女王様を発見して、俺だけでなく周囲が一瞬沈黙する。滅多に見られない二人が一緒に歩く姿をいくつもの視線が追いかけて、二人は俺たちの前で立ち止まった。
「王様と女王様じゃないですか、めずらしい二人連れで、一体どうしたんですか?」
「こいつとはそこで偶然会っただけだ」
 一年生の和希が、誰もが言いにくい事をあっさりと切り捨てて周りがどよめき、そりゃあ和希にとっては一生徒にすぎないもんなと今さらながら感心してしまう。
 強い視線を感じて見上げると、女王様が形のよい眉を寄せて不機嫌な表情で俺を睨みつけている。
「あ、あの……何か……」
「今回の件、お前の努力の成果は褒めてやりたいが、臣の機嫌の悪さは尋常じゃなくてな。しばらくは会計部に入ることもできない状態だ。この代償は啓太、お前にとってもらうのが妥当だと思うのだが」
「……ええっ!?」
 それは中嶋さんの役目なんじゃあ、と言いそうになるけれど、ますます火に油を注ぐようなものだ。確かに女王様には今回心配させてしまったし。一週間の会計部のお手伝いをするということで解決する。
「何の話だ?」
「お前には関係ない。じゃあな」
 後ろから王様が割り込んできて、女王様は足早に一人立ち去り、つれないなあと頭をかいている王様は、中嶋さんの留学すると決まった時も、白紙になった今でも唯一何も変わらない人だ。学生会の仕事の負担が今までと変わらなくなったと、こっそり大喜びしていることを除いては、だけれど。
「あ、そうだ啓太。ヒデが部屋にこいって呼んでたぜ」
「中嶋さんが?」
 慌てて食事を終わらせて、中嶋さんの部屋のある三年生のフロアまで階段を一気に駆け上がる。時間が決められているわけでもないのに、息を切らしてまで走ってしまうのは、妙な胸騒ぎがするからだ。
 何か嫌な予感がする。もしかして、留学を諦めきれないと言い出すのかもしれない。コインゲームで勝利したのは中嶋さんだったけれど、あれは殆どインチキみたいなものだ。
 中嶋さんに対して俺が背負った代償は計りきれない。どれだけ頭を下げても償いきれるものじゃないと、はじめから覚悟はしていた。
 謝るなと、中嶋さんは最後に言った。
 中嶋さんの人生を少なからず変えさせてしまったことに、後になって俺が後悔の念にさいなまれる事を悟ったんだろう。そう、今回のことで俺の態度が変わることだけはしちゃいけない。散々迷って選んだ結果が間違いだったと後悔すれば、それは中嶋さんへの侮辱にもなるんだ。
 俺の選択は正しいものだったと、そう思おう。
 もちろん、俺が背負った重い責任を、これからも忘れるつもりはない。
 中嶋さんの部屋にたどりつき、ドアをゆっくりとノックしながら、もう一度、俺は自分の幸運に願いをこめる。
 どうか、もう中嶋さんを俺から奪わないでほしい。
「……遅かったな」
「あ、はい、いろんな人と話してたから」
 中嶋さんは絶対に部屋の外では制服を着崩さない。白いシャツの襟のボタンを数個外してタバコを口に咥える様は、部屋の中でのいつもの格好だ。部屋の中に入っていくと、ローテーブルにはお酒と灰皿以外に、見たことのない茶色の布の包みが置かれていて、興味をひかれて見つめていると、「お前のだから開けてみろ」と促される。
「いいんですか?」
「……ああ」
 座り込んで包みを開いているあいだ、中嶋さんは俺を見下ろし立ったままタバコを吸い続けている。幾十にも風呂敷のように包まれた最後の一枚をめくると、そこには鈍い光を放つ細い鎖が入っている。
「…………なんですか、これ……」
 学生会で使うのかと掴んでみると、じゃらっと音をさせて垂れ下がるものにぎょっとする。これは手首を縛るための皮製の枷じゃないのか。よく見ると鎖の両端に一つずつ、鎖の全長は一メートルほどだ。あっけにとられてまじまじと見つめていると、屈みこんで灰皿にタバコをおしつけながら中嶋さんが言った。
「毎日楽しくてしょうがないと思わせてくれるんだろう」
「あの、それとこれと、どういう関係が……?」
「店の中で一番シンプルなのを選んでやったんだ。早くつけてみろ」
「えぇっ!!」
 中嶋さんが、見惚れるような笑みを見せる。
「この俺を繋ぎとめたいなら、相当の覚悟をしておけよ」
 これが代償というものならば、正直に言って、願ったり叶ったりというべきなんだろうか。
 俺だけが、自分を楽しませることができるんだって、今はそう言ってくれるから。
 どこよりも、俺の側にいることが楽しいといつか言わせてみせる。俺の幸運の神様と、目の前に広げられた俺と中嶋さんとを繋ぐ鎖に、俺はそう固く誓ったのだった。







END