□ハッピーアイスクリーム□
雲一つない青空の下、中庭に生い茂る木々が次第に色付き始める三月。
太陽が高い場所にある時間になると、防寒着が必要なくなる程暖かくなった。このBL学園も、長い冬が開けようとしている。特に今日は暖かくて、昼休みには制服のブレザーを脱いでいる学生も多い。
手に持つアイスクリームもあっという間に溶けそうだ。
和希は昼休みに一人、とある中庭の木の下でソフトクリームを手にしていた。無表情でそれを見つめているけれど、ふとした瞬間に端正な顔が崩れて、満面の笑みが浮かぶ。
笑顔は、彼の童顔を一層際立たせた。
「……ふふ」
我慢ができなくなり、和希はつい声を漏らしてしまう。
丁度今日から一ヶ月前の十四日、和希は啓太にチョコレートをプレゼントした。バレンタインデーは女性が男性へチョコレートを渡すものだけど、無理矢理押しつけたのだ。当然、啓太は「どうして俺になんだよ」とうろたえていた。
何か返事を期待していたわけではない。ただあげたかったから。
戸惑う啓太が見たかったのだ。
和希と啓太は学園の中では特別な関係だ。幼なじみ、理事長と生徒、友人――誰よりも深いつながりがある。
だけど、恋人ではない。
意識してか無意識なのか、せまってみると啓太はさりげなく話を逸らす。嫌がっているわけでもないらしいが、そもそも和希の告白が冗談だと思いこんでいのだろう、まともにかけあってもくれない。
今のところ啓太に抱いている気持ちは一方通行だ。
だが、今日の朝食後、一人中庭をぶらつこうと立ち上がった和希に、啓太が売店のアイスクリームを渡した。たまにはおごってやると笑うその顔は、心なしか赤らんでいるように見えた。
感情がすぐに顔に出る啓太だから、アイスクリームが遠回しのホワイトデーのお返しだとすぐに察した。
ほんと、罪なやつだよな。
だから自分はいつまでも期待してしまうんだと、和希はアイスクリームを見つめながら僅かに微笑む。
初めての啓太からのお返し。いつまでも持っていたいけれど、できるなら永久に保存してしまいたいけれど、外に出て青空を見たとき、今この幸せを味あわなければと考え直した。
舐めると、冷たさに少し顔をしかめてしまうけれど、甘くておいしい。
甘いけれど冷たいアイスクリームは、まるで自分が心に留め続ける恋心に似ている。うれしいけれど、胸がちくちくと痛む今の自分に。これに苦みを加えれば完璧だ。
一人感傷に浸っている和希には、背後に誰かが近づいていることに気づけなかった。
「おいしそうだね」
「わぁっ」
いきなり真横から覗き込まれて、驚きのあまり飛び上がってしまう。
「な、な……成瀬さん!」
いつの間にか、すぐ隣に成瀬が立っていた。
木陰でも薄い色素の長い髪は豪奢で、日差しの下なら金色に輝く。顔立ちは、和希と同種の人懐っこさと甘い雰囲気を漂わせている。違うのは、テニスで鍛えられた身体と、どこか余裕を残した目だ。
「なんですかいきなり、驚かさないで下さい」
「僕はちゃんと声をかけたよ? にやけた顔して気づいてなかったみたいだけど」
肩を竦めて、成瀬は和希に笑いかける。
「そんなに好きなの? アイスクリーム」
「別に」
「だって、とてもうれしそうに食べてるじゃないか」
「放っておいて下さい」
恋敵と仲良くするつもりは毛頭ない。そう、この男は啓太を取り合う恋敵なのだ。
和希は木にもたれなおし、無視して食べ始めた。
なのに、右肩が触れるほどすぐ後ろで、成瀬も同じように木にもたれかかる。拒絶の言葉は聞かない事にしたらしい。
放っておけばいい、気にする必要などこれっぽっちもないのだ。啓太がくれたこのアイスを食べることが先決だ。他の事に構っちゃいられない。
和希が黙々と食べ続けている間、成瀬は無言で背後に立っていた。
そのまま、ゆっくりと時間が過ぎていく。
いつも耳を塞ぎたくなる程話しかけてくるのに、一体どうしたというのだろう。
そもそも、こいつは何のためにここにいるんだ?
いつの間にか、意識が背後に向いてしまって、アイスの味がしなくなってきた。
話していてもそうでなくても、気になるものは気になる。腹も立ってくる。思う存分アイスを味わいたいのに、後ろの男がそうさせないのだから当然だ。
頭に血を上らせていると、手にアイスが零れてきて慌てて舐め取った。
もしかして、裏に何か意味があるんじゃないのかと次第に思えてくる。成瀬ならそれがありえるから、余計に気が張ってしまう。
何故なら、和希にとって成瀬は、この学園で一番の危険人物だからだ。
和希は素性を隠して学生生活を送っている。
人懐っこくて、穏和で、どこにもいそうなクラスメイトを演じきっている。決して目立つような事はせず、分け隔てなく学生と接する。
仲良く見せることは簡単だ。見た目は若いが年の差は大きく、それ以上の経験の差だってあるのだから。
決して誰とも心を分かち合うつもりもないし、深く立ち入ることはしない。立場上、意識してそうしている部分もあるけれど、それこそが和希の性質でもあった。
つまり啓太を除いて、どうでもよかった。
そんな自分の本質を年下の学生達に気づかれることなどないだろう。そう確信しているし、実際そうだった。
――だが、同じく啓太に想いを寄せる人物は違っていた。
成瀬由紀彦という、俗に言う恋敵。
目が合う度に睨み付ける和希とは逆に、成瀬はいつも微笑み返してきた。それがいつもの軽々しい笑顔であればここまで気にはならない。
和希に対してだけ、その笑顔は変質する。自分の本性を見透かして、しょうがないなとでも言いたげな笑みを浮かべるのだ。和希の内側を覗き込んでくるような視線だった。
近づけば、いずればれる。
何がばれるかはわからないけれど、知られてしまう。そんな危機感を感じていた。
こいつには絶対に悟られまいと身構えるせいで、成瀬に対してだけ態度が荒くなってしまうのは仕方がなかった。暴かれてしまうかもしれない不安が、更に意識させる結果になってるのに気づいても、治せなかった。
なのに、成瀬はそんな和希の警戒など気にもせず、今のように軽々と近づいてくる。その態度も気にくわない。
今も、いつまでも去ろうとしない成瀬に、次第に焦れてくる。
迷惑なんだとあからさまに顔に出しながら、和希は言った。
「いつまでそこにいるんですか?」
「どこにいようと僕の勝手だろう? 僕が嫌なら違う場所に行けばいいじゃないか」
「俺が先にここにいたんですよ。どうでもいいですけどもう少し離れてくれませんか、落ち着かないんです。このアイスが欲しいって言ってもあげませんよ」
もしかして、アイスクリームが欲しくてしぶとく待っているのかと、言われる前に釘を刺す。当然だが、土下座されたって一口もあげるつもりはない。
「いいや」
俯き、成瀬は肩を僅かに奮わせて小さく笑った。その余裕を感じさせる態度が、妙にかんに触って眉をしかめてしまう。
「じゃあ何ですか? 正直、あなたが黙ってると気持ち悪いんですよ」
「いいや、違うよ。……耳を澄ますと、いい音がするんだ」
「音?」
意外な答えに少し驚いて、何か音が聞こえないかと自分も耳を澄ましてみた。だが、遠くで学生の声が微かに聞こえてくるだけで、いい音など何も聞こえない。
首を回してあたりを見つめていると、ふいに右腕を掴まれた。強い力に身体が右側によろめいて、固い何かにぶつかる。
それが成瀬の胸だと気づくより先に、顔の上に何かが被さった。
衝撃で落ちる寸前だったアイスは、掴む和希の手に大きな手が重ねられ落下を免れる。成瀬の片方の腕は、和希の腰にきつく回されている。
目を見開く先に、自分を見つめる成瀬の顔がある。それも、数センチも離れてない。
――あたっているのは唇だけだ。
それがキスなんだと気づくまで、長い時間を要した。
「……ん……? っ、――んぅ」
顔を逸らそうとするより先に、更に成瀬が覆い被さってくる。塞がれることで声も喉元で堰き止められる。
一体何故、こいつは今キスをしているんだ?
さっぱりわからない、全く意味がわからない。だから、何をされているのか理解するのに時間がかかってしまった。
ついでに、声を出そうと口を開けてしまったことで、成瀬の舌が口腔内に入り込んでくる。すぐに口の中に残っているアイスを探り、舐めてくる。歯列の裏側や、上顎や、舌の上にあるアイスを余す所なく。キスというより、和希の食べているそれを味わうような。
和希は、アイスを掴んでいない左手で成瀬の肩を押し、引き剥がそうと躍起になった。
やはり啓太のアイスを横取りしたかったのだ。
怒りが一気に噴き出してくる。手に持つアイスは奪えないと思い、違う手段で襲ってきたのだ。
和希の力づくの抵抗が効いたのか、音を立てて唇が離れた。
至近距離で視線がぶつかる。唇を汚しているのは、白いアイスクリーム。
見せつけるように舌を覗かせ、自分の下唇をゆっくりと舐めながら、成瀬はうっとりと呟いた。
「……遠藤が舐めてる音を、聞いてた」
その形のよい唇に、目が吸い寄せられていることに和希は気づけなかった。その隙に、成瀬が再び顔を寄せて唇を塞いでくる。
――何を聞いてたって?
頭を働かせようとしても、いきなり舌を入れられて思考回路を飛ばされる。散々舌を絡めていったあと、何度も音を立てて唇をついばみ、再び強引に吸い付いてくる。今度はアイスを舐める以外の意志を持った動きだ。
和希は、薄く目を開いて自分にキスをしている男の顔を見た。
目を開けるのを待ち構えていたのだろうか。それとも、力を無くしていく自分の様を、今のようにずっと目を開いて見つめていたのだろうか。
成瀬も、自分を見ていた。
淡く、美しいグラデーションを描く光彩。近くで見ると緑にさえ見える。
深い色の瞳。
普段は軽いテンションで自分を呆れさせる成瀬の奥に、見たことのない真実がかいま見えたような気がした。
どこにも嘘が見つけられない。吸い込まれて、魅せられそうになる。
目を合わせながら、成瀬がすっと僅かに目を細めた。そのしぐさに心臓が高鳴ったことも、顔が次第に赤らんでいくことにも気づけない。
全身から力が抜けて、いつの間にか成瀬に身体を預けていることにも。
心によぎる何かが、自分を酔わせていく。
和希と成瀬の間で、アイスの温度が下がりやがて唾液と同じ温度になる。甘い味が二人の間で行き来して、濡れた音をたてる。
――キスは甘いっていうけれど、本当に甘い。
「……ぅ、……っ」
ぴっちりと塞がっていた唇同士の隙間から、濡れた音と一緒に和希は声を漏らした。
耳を疑うような自分の声にようやく我に返って、成瀬を思い切り突き飛ばす。あっけなく離れていく男を、唇を拭いながら睨み付けた。その目が潤んでいたからか、成瀬が更に笑みを深くした事で知ってしまった。
自分は、からかわれたのだ。
「な、な……何をするんだ……!」
唇が痺れてうまく言葉が出せない。顔を真っ赤にしている和希とは逆に、成瀬は小さく声を出してとうとう笑い始める。
「……ああ、あんた、あんたってやつは……っ」
胸ぐらを掴み上げようと手を上げると、持っていたアイスからぼたりと大きな塊が地面に落ちた。溶けて形を失っているのを見て、怒りのあまり全身が震え出す。
「俺の大事な時間を奪いやがって……! せっかく啓太がくれたのを味わおうと……っ」
「ああ、だからか」
「何がだ……っ」
噛みつかんばかりに歯を剥き出しているというのに、成瀬は愛嬌たっぷりに微笑み、うっとりと呟いた。
「だって、すごく綺麗な顔をしてたから」
「何のことだ」
「啓太の事を想っている時の遠藤は、いい顔をしてるんだよ。すごく悲しそうでね。痛い程気持ちが伝わってくるんだ」
言葉を一瞬失って、和希は目を見開いた。
成瀬は今、何を言ったのか。幸せそうと言われるはずの部分が、何故反対の言葉なのか。
「ねえ、幸せだと、思いこんでるんじゃないかい?」
「なんだと」
「啓太が幸せならいいんだって、自分に言い聞かせているように思える。そう思いこもうとしているように見えるよ」
怒りを削がれている間に成瀬は再び近づいて、少し前屈みになって顔を覗き込んでくる。
「だからさ、僕と一緒に傷を分かち合ってもいいんじゃないかな。唯一遠藤を理解してあげられると思うんだ。どう? 僕に乗り換えてみるっていうのは」
ウインクされて、その軽々しい様子にようやく我に返った。
成瀬は仕組んだのだ。その台詞を言いたいが為に、自分を戸惑わせようとでまかせを言ったのだ。
すべて、啓太を諦めさせ、恋敵を蹴落とそうとする罠なのだ。
そうとわかれば簡単だ。それなりの返事をしてやると、余裕の笑みで見つめ返した。
「……成瀬さん、申し出はとてもうれしいのですが、遠慮なく辞退させて頂きますよ」
「残念だな。じゃあまた次の機会に挑戦するか」
成瀬は、挑発をさらりとかわし肩を竦める。だが和希も負けずに言い返す。
「永久に遠慮させて頂きますけど、それでもよければいつでもどうぞ」
「ふーん、じゃあ、キスはまたしていいんだ」
からかわれて、すぐに怒りを露わにする和希に、成瀬はいつもの明るく澱みのない笑みを浮かべた。
更に、自分の唇に指を寄せて和希に投げキッスを飛ばす。それも、ウインクのおまけつきで。
「ごちそうさま、おいしかったよ」
口を開けたまま硬直している和希を置いて、成瀬は軽い足取りで立ち去っていった。
握りしめていたアイスは、液体に近い状態になっていた。
逆さまに持っていた事に気がつき、和希は慌てて持ち直す。
「……あのやろう……」
アイスも、昼休みもすべて台無しにされた。
追いかけて一発殴ってやりたかったが、それよりも今はこのしおれたアイスをなんとかする方が大事だ。
舐めてみると、甘くて冷たかったアイスは、ただ甘いだけになっていた。
それに、口の中に入れるとすぐに暖かくなる。その生暖かい感触が、嫌でも先程のキスを思い出させる。
キスをされ、成瀬が見つめてくる。
あの目で見つめられたら。至近距離で覗きこんでしまったら、啓太だって降参するかもしれないと。
――恋に、落ちるかもしれないと。
そう、思ってしまった事までも。
「くそっ」
いつの間にか唇の感触まで思い出そうとしているのに気が付き、慌ててアイスを勢いよく口にした。
まさか、この俺が惑わされるわけがない。気のせいだ、きっとそうだ。そう何度も頭の中で反芻しながら、むきになって舐め続けた。
今度は、成瀬に勝つ為の手段を考えながら。
例えば、自分が理事長だということを知ったらどうするだろう。態度が一変するだろうか。少しぐらいは態度を改めるだろうか。
しかし、その期待はすぐにうち消されてしまった。その時の様子を想像するのが簡単だったからだ。
成瀬は、あの垂れ下がった目を見開いてから、すぐに甘やかな笑顔で自分を見つめてくるだろう。
少しも変わらず、「それがどうかしたの」とでも囁くに違いない。
全く、役に立たない。
それでますます沸き立つ怒りのおかげで、アイスの冷たさと一緒に、いつの間にか心の痛みも消え失せていた。
END
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