■白濁チョコレートvol,2■



 暗闇の中。
 俺は、学園が建つ人口島から出る橋を走っていた。
バスでしか走ったことのない橋の上は思ったより長い。
寮を出たときに感じた寒さは、止まらず走り続けているせいでだんだん感じなくなる。  
島から出てみると…もう、店の明かりは殆どなかった。
もう11時近くて、ここはそんなに都会じゃないから当然なのかもしれない。
だけど、俺は開いている店を探し回る。 チョコレートっていうのはお菓子屋さんとか、ケーキ屋さんで売っているんだろうか。
とにかく、売っていそうな店…いや、開いている店をすべて廻るしかない。
ようやく小さく光る看板をいくつか見つけて、俺は一つ一つ覗いて走る。
酒屋さん、喫茶店、洋食屋、ゲームセンター…。
どの店もチョコなんて扱ってない。 だけど、探せばきっと見つかるはずだ。
俺は足を止めず、ひとつの店も見逃さないよう走り続ける。
できる限りのすべての道を通り、探していく。
息が切れて呼吸が苦しい。だけど足を止めるわけにはいかない。
早く見つけて、今夜までに中嶋さんに渡しに行かなくちゃダメなんだ。

 だけど、こういう時ってどうして一番欲しいものは見つからないんだろう。
1時間ほど経っただろうか、俺は大きな道路の角で立ち止まり、走り続けてガクガクと震える足を折り曲げて座り込んでしまった。
「はあっ、はあっ、はあっ、」
冷たい空気のせいか喉が痛い。息が苦しい。
足の震えがおさまって、見上げると交差点の向こうにコンビニが見えた。
もしかしたら何かあるかもしれない。
走っていき、ドアを開けると…。
いきなり目的のものが陳列されていて俺はそのまま立ち尽くしてしまった。
気が抜けて倒れこみそうになってしまう。
コンビニって扱ってるんだ…どうして気が付かなかったんだ? 俺…。
いつもは注意して見ることなんてないからな…。
…だけど。
レジの前に陳列されているチョコは、どう見ても売れ残りをまとめているようにしか見えなくて。
よく見ると、まだ14日はあと1時間残っているのに安売りされているのだった。
ちがう、と思った。
チョコってみんな同じような包装で、きっと目の前のものだって同じものだ。
だけど、これを買って本当にいいんだろうか。
これを中嶋さんにあげていいのか?
俺は、こんなものをあげたいわけじゃ…ない。
どうしてそう思うのか、じゃあどうすればいいのかもわからないのに、何故かそう思ってしまうんだ。
だけど、もうきっとチョコはここにしか売っていない。
迷ったけれど、どうしても手が伸びなくて…だけどあきらめられなくて、俺は店の奥にも何かないかと入っていった。
これといって何もなくて、雑誌が陳列されている所を通り過ぎた時、ある文字が目に入って立ち止まった。
『手作りチョコ』
情報雑誌の表紙に書かれた特集記事のタイトルの一つ。
手作り。
その文字は、行きづまっていた道にいきなり晴れた光のように見えた。
既製品じゃ違う気がしていた違和感がなくなったような気がする。
そうだ、作ればいんだ…!

 って…。
どうやって作るんだ?
雑誌をめくっても、作る方法が載っているような内容じゃなかった。
お客は俺1人。そしてレジには店員さんが1人。 運良く店員さんは女の人だった。
大きく息を吸う。
こんなところで緊張して戸惑っている時間なんかないんだ。
俺はレジに向かって行った。


 右手にコンビニの袋を持って、俺は学園へと全速力で走る。
袋の中には数枚の普通の板チョコが数枚。
そして生クリームとトッピングになりそうなお菓子。
店員さんから聞いたことを忘れないように、何度も頭の中で反芻しながら。






 もう12時はとうに過ぎてしまった。
中嶋さんの部屋の前に俺は立っていた。
左手に、ハンカチで包んだチョコを持って。

 食堂の調理場で作ったチョコは、ひどい以上の出来だった。
型がなくて、学食のプリンの入れ物に入れて固めたら、抜けなくなってそのまま。
包装紙もなくて、自分のハンカチに包んで母のチョコについていた赤いリボンで結んだだけだ。
やっぱり既製品を買えばよかった。
格好つけないで素直に買っていたら こんなひどいものあげるよりマシだったかもしれない…。
だけど、要は気持なんだ、絶対そうなんだと自分を慰めて、とうとうここまで来た。
勢いでここまでやってきたけれど、ドアの前に立ったとたん、いきなり緊張しはじめてしまいノックできないまま…もう数分が経過している。
緊張して足が振るえている自分に気が付く。
…俺が作ったチョコを中嶋さんに渡す。
そう思い始めたら、恥かしくてたまらなくなって、逃げ出してしまいそうになる。
中嶋さんは、こんなものを受け取ってくれるのだろうか。
もし、受け取ってくれなかったら…。
…女の子って、みんなこんな思いをしているのだろうか。
それとも、男なのに男に渡そうとしている俺だけなんだろうか。

 やっぱり…こんなみっともないチョコ渡せないよ…。
ドアの前に立っていると、どんどん悪いことしか思えなくなってしまう。
悩んで悩んだ結果、俺の気持は固まったしまった。
男なのに、しかも中嶋さんに不釣合いすぎるこんな汚いチョコなんて渡すほうがどうかしてる。
やっぱり…だめだ。
俺は引き返そうとして、踵を返した。
その時勢いでチョコを手から落としそうになってしまい、慌ててしゃがみこんだとたん、頭がドアにぶつかって大きな音を出してしまい心臓が跳ね上がる。
「――っ!」
やばい…っ。
頭を抑えてそこから逃げ出そうとすると、ドアがいきなり開いて、
半分しゃがみこんだままの俺をドアの隙間から見下ろす…中嶋さんと目が合った。
「あ……」
その目は少し驚いたふうだったけど、何も言わない。
もう、逃げも隠れもできなかった。
何もないですって逃げることなどできるわけがない。
覚悟を決めるしかない…ちゃんと、渡さなくちゃいけない。
立ち上がって、俺は30センチ程開いたドアの向こうの中嶋さんを見上げた。
上からいくつかのボタンをはずし、軽くはおった白いシャツと淡いグレーのパンツ。
シンプルで中嶋さんらしい部屋着だった。まだ寝ていなかったみたいでホッとする。
「よ、夜遅くにすいません…っ、 あ、あの…俺、渡すものがあって…っ」
震えながら発した声はびっくりするほど廊下に響いた。
「でかい声を出すな、篠宮に見つかる」
いきなりそう言うと、中嶋さんはドアを開いて俺の腕を掴み部屋に入れ、ドアを閉めた。
「あ、す、すいません…っ!!」
そうだった、俺…すごい時間に3年生の人の部屋に来ているんだった。
中嶋さんの迷惑を考えてなかったことに俺は必死で何度も謝るけれど、中嶋さんはそれを制止して言った。
「何だ、こんな時間に」
その声は苛立っているみたいで…こんな時間に尋ねてくるんだから当然だよな。
「あの、すぐ帰りますから、これを…」
早く帰らなくちゃ、という思いが強いせいで、俺は勢いでそれを中嶋さんに差し出してしまう。
「これを、中嶋さんに…っ。 あの、お、俺から、です………」
中嶋さんの顔は見えない。
俺が目を閉じて俯いているからだ。
そのチョコが俺の手から離れるまで、息が詰まるほどの時間がかかった。
中嶋さんがそれを受け取ったとたん、俺は安堵のあまり足から力が抜けそうになる。
「……なんだ…これは」
目を開けて中嶋さんを見上げると、奇妙な顔をしてそのハンカチの包みを見ていた。
「あ、あの…チョコ…です…」
そう返事をすると、少し眉をひそめて形を確かめ始めた。
…中嶋さんはそれが何なのかわからないのだった。
そうなんだ、そのみっともない包みはどう見てもチョコの包みには見えないぐらいひどいシロモノで。
俺は慌てて言った。
「あのっ、自分で作ってみたんですけど、全然わからなくてこんなひどいものになっちゃって…っ、こんなみっともないのいらないですよね、ごめんなさい…っ」
中嶋さんにそれを見られているのがいたたまれなくなって、俺は中嶋さんの手からそれを取りかえそうとする。
だけど中嶋さんはそれをかわして、俺が届かない頭上に持ち上げてしまう。
「か、返してくださいっ」
必死でその手を引き下ろそうとすると、中嶋さんがいきなりチョコを持っていない片方の手で
背伸びをしてもがいている俺の腰を抱きしめた。
突然中嶋さんの身体に密着してしまい、体が硬直して動けなくなる。
「…あれから作ったのか」
あれ…ていうのは、きっと俺が人のチョコを中嶋さんに渡したことだ。
俺は中嶋さんの顔が見れないまま頷いた。
「…どうしてこんなことをする」
中嶋さんが聞くのは当然だった。
理由。
ここに来て、みっともないチョコなんか渡しにきた理由。
俺は口を開きかけ、言いそうになった言葉を飲み込んだ。

『――あの人のを、受け取って欲しくなかったんです』

言えるわけがなかった。
そんなこと絶対に…言えない。

…誰にも、中嶋さんを渡したくない。
…誰も、中嶋さんを見ないでほしい。

 これは独占欲だ。
汚くて、みっともない思い。
俺の醜い心を見せて、中嶋さんに嫌われたくなんかない。
独占欲は…きっと中嶋さんが一番嫌うこと。
「…渡したかったからです…」
俺が呟いた言葉は、全然答えになんかなってなかった。
だけど、これ以上言葉が見つからない。
問い詰められる、と思った。
中嶋さんに責められたらきっと俺は吐き出してしまう。
それがこわくて、俺は中嶋さんの肩のあたりで俯いたままじっと次の言葉を待った。
だけど、中嶋さんはいつまでたっても俺を問い詰めようとはしない。
腰に回されていた手が俺の頭を掴んで、ゆっくりと俺を上に向かせた。
怖いけれど、きっと目を閉じていたらダメなんだと思ってゆっくりと目を開ける。
「…じゃあどうしてそんな顔をしている」
中嶋さんの目は…俺を責めてはいなかった。
深くて、吸い込まれそうな…いつもより少しだけやさしい目。

 ――俺、ひどいことをしようとしている。

 チョコを持っていた中嶋さんの手が俺の手が届くところまで下がっている。
とっさに俺は、その手からチョコを奪い取った。
「俺、どうかしてましたっ…帰ります…っ」
慌てて体を離し、そのまま俺は駆け出して中嶋さんの部屋から飛び出した。






 3年生のフロアを走りぬけ、階段を降りる。
廊下を走る自分の靴の音がやけに大きく響くけれど足を止めようとは思わない。
情けなさと恥かしさで涙がどんどんこみ上げてくる。
声を上げてしゃがみこみたくなる衝動を必死で抑えながら、俺は逃げ続けた。
なかったことにしてしまいたい。
すべて消えてしまいたい。
暖房が止まった廊下の冷たさが足に伝わり指の感覚がない。
階段の最後の段を踏んだとき、足に力が入らなくて膝から前のめりに倒れた。
手からチョコが飛んで廊下に転がり、リボンがとれてハンカチの中からプリンの容器が覗く。
それを俺は倒れたまま見つめていた。
かっこ悪い、不恰好なチョコだった。
あんなものを渡そうなんて、俺本気で思っていたんだろうか。
思い切り打ち付けた脛は冷たさで麻痺しているのか、痛くはなかった。

 気が付いてしまった。
これは渡すべきじゃなかった。
俺がしたことは、中嶋さんにチョコをあげたいとか、何かしたいっていう純粋な思いじゃない。
俺、負けたくないっていうそれだけのためにチョコなんか作った。
ただ、対抗したくて、とられたく、なくて…。
こんなこと、俺の気持を満足させる為だけの行為じゃないか。

 ――俺は、中嶋さんを侮辱していた。

 涙が床に零れ落ち、小さな音を立てた。
どうして泣くんだろう、と思った。
全部、俺が悪いんだ。

 涙を流してしまう自分に憎しみさえ感じて、乱暴に腕で目をこする。
その時、涙が落ちた床に光の筋が落ちていているのに気が付いてゆっくり見上げると、廊下の先の食堂から光が漏れているのが見えた。
俺は立ち上がり、バラバラになってしまったチョコとリボンとハンカチをつかんで、ゆっくり歩き出す。
明かりがついたままの調理場を覗くと、そこには必死になって作った跡が生々しく残っていた。
電気も消し忘れ、片付けずにこのままにするつもりだったんだろうか、俺。
自分で自分がおかしくて、少し笑った。
「…片付けなくちゃ…」
片付けていると少しの時間だけは忘れていられて、俺は入った時より丁寧に、時間をかけて片付け掃除をした。
食堂に掛けられた時計を見ると、もう夜中の3時になろうとしている。
だけどまったく眠気なんて感じなかった。  

 15分ほどで掃除を終えて、俺は食堂を出る。
少し気持が落ち着いたような気がするけれど、自分の部屋に戻ってもきっと眠れないだろう。
明日は運良く土曜日で学校は休みだ。
…中嶋さんに会わなくてすむ。
そう思ったら少しだけ安心している自分がいた。
自分の部屋がある、最後の角を曲がる。
暗い廊下。
曲がったその先に、ひとつの人影が見えた。
俺は驚いて声を上げそうになり、とっさに口を押さえてしまう。
その影は俺の部屋のドアの前にあった。

目を必死で凝らして見ると、背の高いその影は…中嶋さんだった。







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