□二人自慰(前編)□



 俺は慢性の睡眠不足の身体に鞭打って、机の上の教科書に意識を集中しようとしていた。
 現在午後10時過ぎで、明日が中間試験最終日。今のところ赤点はまぬがれそうな程度には順調に試験を終わらせてきている。だけどここにきて、意識は散漫になりがちだった。あと一日で中間試験は終了だと思うと、萎えていた気力も最後の力を発揮するのか、目も冴えて頭もすっきりしていていて眠くはない。今集中してやれば、効率よく勉強がはかどるはずだ。
 そんなことはさっきからわかっているんだけど。
 もうあと数時間でこの苦痛から介抱される。そう思うと、終わったらまず何をしようとか、部屋を片付けたいとかおいしい物が食べたいとかいろいろ考え始めてしまい、ひきしめていた気持がすぐに緩んでしまう。
 雑念にとらわれている場合じゃないんだ。今を逃すとまた集中できない時間がやってきて、そのサイクルにうまく合わさなければ最後まで頭がすっきりしないままで終わってしまう。
 そう、勉強に集中しなければ。
「七条さんも頑張ってるのかなぁ……」
 ふと頭に浮かんだことが口に出て、直前の決意は一瞬で帳消しになった。俺はぶんぶんと頭を振ってその名前を頭から追い出そうとするが、一度出てくるとなかなかひっこんでくれないのはいつもの事で。
 七条さん、それは勉強する意欲を失わせる最も危険な言葉なのだ。
 しかも、思い出すだけでふわっと体重が浮くような、奇妙な浮遊感がある。その心地よさに漂いはじめると止まらないんだ。抗える術なんて持ってない。
 七条さん、七条さん。
 名前はすぐに一人歩きして、俺の頭の中を一杯にする。
 試験が終わって何が一番うれしいって、七条さんに会いにいけることなんだ。


 今日で試験5日目。その前の試験準備期間から、食堂で一緒に食事をする以外、二人きりでは会っていなかった。会計部にも行ってないし、七条さんだって試験があるわけだから、俺が会いたいからって部屋に遊びにいくわけにももちろんいかなくて。
『試験が終わったら一緒に遊びましょうね』
 微笑んでそう俺に言ったけれど、その言葉の裏は(試験中は我慢しましょう)ていう意味だ。親しみのある笑顔に反して、七条さんは決して俺と二人きりになろうとしない。
 七条さんはやさしい。自分よりも大切にしてくれて、いつでも俺の気持を優先してくれる。俺の気をまぎらわせないよう、勉強に集中できるよう気を使ってくれているんだってよくわかってる。
 だって、七条さんと二人きりになってしまったら、高い確率でいやらしい事をしてしまうから。そうしたら最低半日は俺の身体が試験勉強などできない状態になるって、七条さんも俺もよくわかっているんだから。七条さんの行動は正しい。俺から七条さんを避けることは不可能なんだし。
 でも、少し寂しいって思うのは俺の我が侭なんだろうか。二人きりの時間を、何もしなくていいから、触れたりもしないから、10分でも1分でもいいからほしいって思うのは俺だけなんだろうか。
 食事の時でも、廊下で顔を合わす時にも、いつもの爽やかな笑顔を向けられるとイライラしているのは俺だけなんだってわかって、尚更悲しくなる。
 キスだけでもいいから、したいよ…七条さん。
 そう頭の中で呟きながら、浮かんでいる妄想はもっと先に進み始めてる。椅子に座り、机の上に広げたノートの上で鉛筆を持つ俺の手はいつのまにか止まっている。
「七条さん……」
 嘘ばっかり。キスなんかで終われるわけがない。
 試験期間中、俺の頭を満たしていたのは100パーセント勉強か、100パーセント七条さんのことか、そのどちらかだった。七条さんの事を考え始めて止まらなくなったとき、暴走を治める術はひとつしかない。
 もぞもぞと腰を動かすと、布に触れるそこの皮膚が熱を持ち始めているがわかる。
 七条さんと、たくさんいやらしい事をしたい。低くて甘い声が脳の中で俺に囁き始めたらもう止まれない。
 悩むよりてっとり早く治めて勉強に戻る方が早いと判断し、でも少しの罪悪感を残しながら、おずおずとハーフパンツに手をかけようとした、その時だった。
 小さなノックの音に身体が飛び上がり、返事をするより先に条件反射で鉛筆を握りなおし姿勢を正す。
「はいっ!」
 冷静を保とうとした声は妙に大きくはっきりしたものになった。返事をしてからここは自宅の自分の部屋じゃないことに気がつき、慌てて立ち上がる。自分の身体がどこもおかしくないか再度確認してからそっとドアを開けると、そこには、今まさに妄想の中に登場させようとしていた七条さんが立っていたんだ。
「七条さん!」
「こんばんは、夜遅くにすみません」
「ど、どうしたんですか?」
 思わず声がうわずるけれど、平静を保とうと必死だった。まだナニもしてないし未遂なんだけれど、七条さんはカンが鋭くて、少しの変化にも気が付いてしまうから。
「よかったら少しの間だけ僕を部屋に入れてくれませんか?もちろん勉強の邪魔はしません、迷惑もかけませんから」
「え、えっ? それはもちろんいいですけど…っ」
 俺の返事を聞くやいなや、うれしそうに微笑みながら七条さんが中に入ってくる。わけがわからず七条さんの後ろについて俺も部屋の中に戻り、目の前の大きな背中を見つめていると、七条さんが振り返り俺を見下ろした。
 一人だと丁度いい広さに感じる部屋は、七条さんと二人になると窮屈に感じる。七条さんがとても大きくて存在感があるせいだ。
 ひさしぶりに至近距離で見る、紫色の瞳と、綺麗に口角が上がった少しふっくらとした唇。俺をすっぽり隠してしまう程の大きな身体が目の前いっぱいに広がり、一気に顔に血が上ってくる。
 七条さんは一体何をしにやってきたのだろう。試験勉強のはずはない。だって七条さんは何も持ってきてないし、明日も試験だって言っていたから俺に勉強を教えにきたわけでもないだろう。じゃあ一体何をしに来たのか。
 いつも俺の部屋でしていることといったら一つしかない。しかも今は夜の10時、用事が無ければ最も一緒にいるであろう時間。
 期待に心臓が高まり、まともに七条さんと目が合わせられなくて俯いた。今俺の顔を見られたら何か期待してるって絶対にバレてしまう。
 だけど、ニッコリ笑って七条さんが言った言葉は意外なものだった。
「伊藤くんは勉強に戻って下さい」
「え?」
「さ、椅子にどうぞ座っていて下さい」
「は、はあ……」
 整った顔は微笑むと目尻が少し下がって、こちらもつられて微笑んでしまう程穏やかな雰囲気になる。だけど、教科書の見本のようなその笑顔は、よくよく観察すると見事に作られた能面のようで微動だにしない。こんな笑顔は絶対に何かを企んでいる時なのだ。
 その事実を知った今では、その微笑につられて素直に笑い返すことはできなくなってしまった。笑顔の裏では精密なコンピュータがどんな作戦プログラムを構築しているのか、想像するだに恐ろしい。
 だけどその不安と恐怖は、ほんの時折俺だけに見せる、人間らしい心からの微笑みを見るだけで簡単に懐柔されてしまうのだけれど。
 それにしても、さっきまで二人きりになりたいって願っていて急遽叶ったというのに、七条さんの行動はどこかおかしい、いや怪しい。
 訝しげに七条さんの表情を伺いながら、言われたとおりに椅子に座りなおすと、七条さんがドアの方に向かって歩き、机から一番遠い壁に背中をもたれさせた。丁度3メートル程の距離から俺の背中を見つめる状態だ。
「七条さん……?」
「どうか僕のことは気にせず、そのまま勉強を続けて下さい」
 思わず椅子から立ち上がろうとすると止められてしまい、七条さんが低い声でゆっくりと言った。
「よければ、このまましばらく僕の方を見ないで頂けますか? 僕がいいと言うまでです。もちろん伊藤くんに何かするわけじゃあありませんから安心して下さい。勉強の邪魔もしませんし襲ったりもしません。僕の存在は無視して下さって結構ですから」
 つまり俺は七条さんの方を振り向いちゃダメってことか?一応言われた通りに机に向き直してから七条さんに問いかける。
「あの、どうしてですか? 七条さん……」
「それは内緒です。といってもバレてしまう可能性は大きいですけどね」
 うれしそうな声でも回答になってない。理不尽なお願いをされているというのにそんな声を聞くと振り向けない俺も俺なんだけど。
「すぐに終わりますから、伊藤くんは勉強して下さい、どうか僕のことは忘れて」
 そんなこと言われても、背後の存在感を忘れるなんてできるわけがないじゃないか。そう反論したかったけれど七条さんに今何を聞いてもはぐらかされる事は承知なので、黙って勉強を続けようと決心する。
 折角七条さんと二人きりになれたのに、その喜びも堪能できず一人だった先ほどの状態に逆戻りだ。


 意識を勉強に向けようと努めながら、俺はなんとか勉強モードを取り戻して鉛筆を走らせ始めた。
 何の音もしない背後がとても気になるけれど、言われた通りにしておけば最後には七条さんから謎の行動の目的を教えてくれるだろう。そう納得してみるとすっきりしたのか、次第に勉強への集中力が上がっていく。
 問題を解くために計算式をノートに書いているその時、背後でカチャ、と小さな金具の音がした。七条さんが動いた、それだけならいい。だがその後更に見慣れた音が続いたのだ。
 ジッパーを下げる音だった。
 ブレザーを脱いだ制服姿でジッパーの音といえば、場所はひとつしかない。
「七条さんっ!?」
 驚いて振り向こうとすると、ダメです、と鋭い声で制止される。
「どうか振り向かないで下さい。お願いですから」
「でも、七条さん一体何を……っ!」
「気にしないで勉強を続けて下さい」
 声はとても冷静で、俺に有無を言わせない迫力があった。振り向こうとした頭はそれ以上動けず、結局教科書を見つめ直すけれど、布が擦れるような音が聞こえ始めると、鉛筆を動かしたくても後ろが気になって何も書けなくなる。
「七条さん……」
「大丈夫、もう音はさせません。勉強に集中して下さい」
 言ったとおり、しんとした部屋から七条さんが動く音は消えたようで、ひとまず俺は再度問題文を読み直す。七条さんが何をしているのかは考えないように努める。さっきの音は何か袋を開けた音だ、そう思いこむ事にする。
 それからしばらくの時間が経過した。
 長い時間をかけてやっと俺も背後の気配を忘れることに成功し、一心に鉛筆を走らせ続ける。
「うーん……」
 ひとつの問題にひっかかり、手を止めてしばらく考え込んでいた時、奇妙な音が聞こえたような気がしてノートから視線を外した。しばらく耳を澄ましても、何も聞こえてこないので再び教科書に視線を戻すと同時にまた小さな音がする。
 七条さんの方からするのはわかる。だけど今度は布の音でもジッパーの音でもない。
 しばらく耳を澄ましていると、それは断続的に、小さくなったり大きくなったりしながら途切れないことに気が付いた。どこかで聞いたその音の記憶を必死に探ってみる。
 そうだ、調理実習だ。いつかの授業で、この音に似た音を聞いたことがある。
「ハンバーグ……」
 正解を思わず口にすると、くす、と笑みを漏らす声が聞こえた。
「ハンバーグ、が答えなんですか?随分おもしろい問題を解いているんですね」
 慣れないながらも一生懸命肉を練ったからよく覚えていたんだ。ボールの中でお肉と具を手でこねた感触と音はまだ忘れていない。その時の濡れた音にすごく似ているんだ。
 かき混ぜるような、ぬめった液体を擦り付けるような――――
「七条さんっ!?」
 とっさに大声を出して立ち上がったけれど、後ろは振り向かなかった。
 違う、怖くて振り向けなかったのだ。
 背後にいる七条さんが何をしているのか、振り向けば俺は何を見てしまうのか。
「し、し、七条さん、そこで一体何をしてるんですか!」
「……何をしているかわかりますか?」
 俺の豹変に動じているふうでもなく、七条さんは楽しげな声で聞いてきた。
「……っ、な、なんとなく、わかりますっ」
「じゃあ、なんだと思いますか? 伊藤くん」
 落ち着いた響きの声は、普段の七条さんよりも低くて、それでいて熱い息が伝わってきそうで。そう、いつも俺を抱きしめながら囁く吐息のような。その声のトーンは、七条さんが興奮している時なんだ。それが自分の答えが正解だったことを証明している。なのに七条さんは俺をからかってはぐらかそうとする。
「ハンバーグを作っているんですよ、伊藤くんの為に」
「嘘言わないで下さいっ、何も道具持ってきてないじゃないですか!」
「ああ……そうでしたね、うっかりしていました。用意してくればごまかせたかな」
「そんな問題じゃないです……っ!」
「じゃあ正解の答えを僕に教えて下さい。正解だったら僕を見てくださって結構ですよ」
 七条さんが何をしようとしているのか、俺に何をさせたいのかわからない。わかっているのは濡れた音は聞こえ続けていて、僅かだけれど大きくなってきている事だけ。
「……手、……や、やめてください……っ」
 楽しそうに七条さんが囁く。
「僕が何をしているのか、答えて下さい……伊藤くん」
 もし違っていたら? 俺を困らせようと、想像しているのと全く違う事をしていたら? 俺がそう思い込んでいるだけだとしたら恥をかくのは自分だ。もし間違いなら、俺がそんなことを考えていたのかってバカにされるかもしれない。
 でも、身体が正解だって答えてるんだ。俺だけに囁かれる甘い痺れを誘う低いトーンが電流となって身体に伝わり、思い出した身体が勝手に火照り始めている。それが何よりの証拠だから。
 震える声で、俺はその答えを言った。
「一人で……てま……す」
「聞こえません、もう一度」
「ひ、一人で……、し、し……てま、す……っ」
「はっきり言わないとわかりませんよ、僕が何をしているんですか?」
「……お、……オナニーを、してます…っ!」
 七条さんの反応を待っている間にも、濡れた音は響き続けている。更に深い溜息のような、満足げな吐息が聞こえてきた。それを合図に、俺はごくりと唾を飲み込んで、ゆっくりと振り返る。
 七条さんと目が合った。先程の張り付いたような笑みではなく、俺を射るように目は熱っぽくて、口角が上がった唇は濡れているようにも見える。姿勢は部屋にやってきて壁にもたれた時のままだった。だけどその右手は身体の中心に向かっていて、早いテンポで動き続けている。
 恐る恐る視線を下に降ろしていき、剥き出しになったそこを見たとき、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。予想していたはずなのに、想像していた以上の生々しさといやらしさに身体が震えて自然に声が漏れたのだ。
 赤黒く、完全に立ち上がった巨大なものがそこにあった。部屋の電気に煌々と照らされて、たくさん染み出した液体がそこをコーティングしているかのように覆い、鈍い光を放っている。それを握っているのは大きな手で、固く動かないそこを緩急をつけて扱いている。
 上半身はいつもの七条さんなのに、下半身はまるで別人物のような錯覚を覚えて眩暈がした。現実だと思えないのは、部屋がとても明るいからだろうか。何事もないように微笑みを絶やさない七条さんの表情があるからだろうか。
「……七、条、さん………」
 沈黙のあと、ようやく声を振り絞って言えたのはそれだけだった。





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