赤い絨毯を濡らして 前編




 今年は暖冬とはいえ、やっぱり真冬の夕方ともなると吹き荒ぶ風は冷たく、コートの襟を立てていても耳が悴んで痛い。既に感覚がなくなってしまった鼻の頭もきっと真っ赤になっているだろう。
 こんな寒いビルの下なんかで待ち合わせなければよかったと、自分で決めてしまったことに後悔してる。
 でも先に到着したおかげで、中嶋さんに待たせずにすんだ。中嶋さんだったら勝手に場所を変えて待っているかもしれないけれど。
 今日はクリスマスイブ。学校は12月の半ばで終業式を終えて、俺は実家からこの都内まで2時間近くかけてやってきている。多分中嶋さんもそれぐらいの時間をかけてここにやってくるはずだ。
 手袋をめくって時計を見ると、6時55分。約束の時間まであと5分。高鳴る胸を抑えることができず、その場で何度も足踏みしてしまう。
 家を出るときから、いや、約束したときから、胸が高鳴りっぱなしだった。今日のことを考えるだけで足が震えるほどに緊張する始末で。その鼓動は今、こうやってあと数分で会えるときになって最高潮になってる。
 ――――今日は、二人で食事をしてホテルに一泊する。一晩も中嶋さんと一緒にいられる。
 また血圧が上昇してきて、いてもたってもいられずコートの袖で顔を擦った。
 なんだか周りの視線が気になってしまう。大好きな人を待っているって、あからさまに顔に出ているような気がして仕方がない。顔が緩んでるし、にやけてるし、寒さだからじゃなくて顔が火照ったままだし。
 こんなことで、俺、中嶋さんがやってきたら普通に話せるんだろうか。


 今日のこの日を迎えるまで、大変なことがたくさんあった。
 去年の失敗から学んで、今年のクリスマスは11月に入ってからじっくりと準備を練ってきた。何か物をプレゼントするよりも、もっと違う何かを渡したいってまずそう思ったんだ。
 だって、実家に戻ってしまった中嶋さんにプレゼントを渡したいって言ったら「じゃあ家に送れ」って言われそうじゃないか。
 だから、会わないと絶対渡せないものにしたかった。つまり、中嶋さんの時間を拘束できるようなこと。それも、できるだけ長く、長く一緒にいられるようなこと。それも必然的にじゃないと、用事が終わったらまたさっさと帰ってしまうだろうから。
 長く一緒にいる一番の方法は、どこかで一泊すればいい。それが一番確実な方法だ。
 中嶋さんがホテルに泊まるとしたらどこが一番似合うだろうと考えると同時に、すぐに頭の中に浮かび上がる光景は、都内の、とても高級で近代的なホテルだ。
 きっと知的で冷たいイメージの中嶋さんには似合う。そして中嶋さんだってそんなホテルを選ぶと思うんだ。
 ホテルでの一泊というのはどうだろう。俺の財布で足りる金額では到底ないだろうけれど、11月からなら短期のバイトで稼げばなんとかなるはずだ。
 それから俺は一ヶ月間学生会を休んで、放課後も休日も一日も休まずに短期バイトに励んだ。おかげで高校生ではおよそ泊まれないような都内の有名なホテルに予約することができたんだ。本当はスイートとか、少しでもいい部屋にするべきだったんだろうけれど、そのホテルのツインの普通料金で俺の財布はパンク寸前だった。
 ホテルの予約を終えて、緊張しながら中嶋さんにそのことを告げたら、あまり驚きはしなかった。勘が鋭い中嶋さんのことだ、俺が毎日忙しくしていた理由は何なのか、なんとなく察しはついていたんだろう。でもまさかホテルだとは思わなかったらしい。少し眉を上げて驚いてから、ほんの僅かに微笑んで、中嶋さんは俺の誘いを受けてくれた。
 そしてホテルでの宿泊を俺がプレゼントしたお礼に、中嶋さんがよく行く店に食事に連れて行ってくれるって言ってくれたんだ。
 中嶋さんにホテルの事を言った後に気が付いたけれど、はっきりいって、ホテルなんて俺が中嶋さんといたかっただけで、中嶋さんにとっては別にプレゼントでもなんでもないことだ。
 でも、中嶋さんは何も言わないで、ただありがとうって言ってくれた。その一言だけの言葉も表情も忘れてない。一ヶ月間ろくに話もできなかった苦しみも、それだけで一瞬で吹き飛んでしまったんだから。


 怪しまれる程に赤くなっているだろう顔を隠せず、とうとう壁側に身体を向けて、ついでに壁におでこを当てて顔を冷やしていると、「何をやってるんだ」と低い声が背後で聞こえて慌てて振り返る。
「な、中嶋さんっ!」
 黒の薄くて柔らかそうな生地、多分とても高い生地でできているんだろう、そのシンプルなロングコートの襟を立てた中嶋さんがすぐ背後に立っている。
 顎を少しだけ隠すマフラーは深いグレーで、太い毛糸でできているけれどカジュアルな雰囲気があまりしないのは、とても高価なものだって人目でわかる程、上品な雰囲気をかもしだしているからだろう。
 下から巡っていく視線は、一番上にある小さな顔で止まり、そのまま無言で見つめてしまう。会うのは一週間ぶりで、私服姿なんて覚えていないぐらいずっと前に見たきりで。
 冷たい空気に晒された肌は透き通るようで、フレームレスの眼鏡の奥の瞳は怜悧さが際立っている。決して精悍な顔つきではないのに迫力があるのは、背丈もあるけれどまとっている冷たい雰囲気とその目だ。そして薄い唇。風のせいで青みがかった髪がなびき、形のよい秀でた額がよく見える。
 強い風が吹いて、ほんの少し目を細めるしぐさに、ほんとうに中嶋さんが今目の前にいるんだと実感して、顔が赤くなるのを通り越してあまりの緊張に今度は青ざめてきた。
「いつまで突っ立ってる。行くぞ」
 そんな俺を知ってか知らずか、中嶋さんは呆けたままの俺を置いて歩き出す。
「あ、ちょ、ちょっと……っ」
 肩を並べて歩くより、俺が中嶋さんの背中を見ながら後ろを必死で追いかける、それが俺達のいつもの歩き方だ。

 
 中嶋さんが予約してくれた店は、ホテルから二駅ほどしか離れていない場所にあった。
 小さな洒落たビルの一階の、真っ黒の扉には何も書かれていなくて、一見何の店だかさっぱりわからない。ドアを開けてみると賑やかなたくさんの声が聞こえてきて、店員が出迎えてやっとちゃんとしたお店なんだってわかった。
 洞窟のように暗い店内は、数少ない淡い光のライトとたくさんのロウソクだけが唯一の灯りだ。そのロウソクはクリスマスを演出しているのか、通路や壁のあちこちに灯されている。個室形式になった一室に案内されて入ると、そこは四人入ると一杯になるような小さな部屋だった。
 緊張しながら中に入ると、すぐに中嶋さんが店員に二人分の聞いたことのない飲み物を告げる。「お前はあまり強くない方がいいだろう」と言ったからお酒を注文したんだろう。
 コートと同じ黒のハイネックの薄手のセーターは、薄暗い部屋の中でもよく似合ってるのがわかる。太い手首に巻かれた時計は、中嶋さんの冷たいイメージよく似合う鈍い銀色だ。
 ダッフルコートを脱いだ俺はといえば、コートと同じく安物くさい、よく言えば高校生らしい荒い目のざっくりとしたセーターで。一応一番いいものを選んできたつもりだけど、中嶋さんの前だと子供っぽくて恥ずかしくなる。俺が中嶋さんみたいな服を着たからって大人っぽくなれるわけじゃないけど。
 飲み物が運ばれてきて、しばらく無言で飲み続けてから、緊張が少しづつほぐれてきた俺から話しかける。
「……ひさしぶりですね、こうやって会うのって」
「そうだな」
「実家に帰って何をしていたんですか?」
「今のところはのんびりやってる。正月になると慌しくなるから今のうちだ」
 自分の事は滅多に話さないけれど、聞くとちゃんと答えてくれるいつもの低い声が、冷たい身体の中に浸透してくる。
 グラスを口にする中嶋さんの顔を盗み見てみる。真正面に座っているせいで、まともに顔を見ることができなかったから。
 薄い唇が僅かに開いてグラスを挟み、綺麗な色のお酒が口の中に流れていく。逸らした首筋と喉仏が薄暗い部屋で浮き上がって見える。お洒落なグラスでもビールでも、中嶋さんの以外と豪快な飲み方は変わらない。
「……何だ、口に合わないか」
「えっ、……あ、いえ、すごくおいしいですっ」
 口元ばかり見ていたのを気付かれたかもしれない。しかも俺、口を開けたままだったかも。
 次々と出される料理は、何の国籍なのかわからない創作料理のようなものばかりで、どれも驚く程おいしかった。中嶋さんがよく行くだけあるよな。店員さんも中嶋さんをよく知っているみたいで、今日のお勧めのものなんかを気軽に話したりしてる。その女性店員さんの顔がやけにうれしそうなのがちょっと気になるけど。
「お前、痩せたんじゃないか?」
「そうですか? ……あ、そういえば、ちょっとベルトが緩くなったかも」
 短期バイトで動き続けていたせいで、確かに少し痩せたかもしれない。自分の身体を見下ろしていると、左頬に冷たい感触がしてそのまま上向かされる。
 中嶋さんの冷たい指が俺の顎を掴んでた。
「頬も少しこけているし、肌の艶もないな。ちゃんと食ってるのか」
 驚いた俺は、何も返せず中嶋さんを見つめたままで硬直してしまう。至近距離にもまだ慣れないのに、いきなり肌に触れられて頭は真っ白だ。なのに中嶋さんはさらに肌の感触を確かめるように指の腹で頬をなぞっていく。
「……あまり無理はするなよ」
 多分、俺が今日の為にしてきたことを知っていて、心配してくれてるんだ。
 そう思ったら胸が締め付けられるような、だけどとても心地よい痛みに襲われて、離れようとした中嶋さんの手を思わず握り締めた。そのまま、自分の頬に大きな手を押し当てて目を閉じる。
 俺は目の前にいる人のためにここにいるんだって、今、一番好きな人と一緒にいるんだって、それがとてもうれしくて。
「……ありがとうございます、中嶋さん。こうやって来てくれて……」
「もっと食べていけよ、全部お前の為に肉ばかり頼んだからな」
 雰囲気もへったくれもない中嶋さんの言葉通り、その直後に店員さんが肉料理をどんどん持ってやってきた。
 しかも全部食べろと脅す中嶋さんは、学生会で俺や王様に仕事をおしつけていた時と全く同じ迫力で迫ってくる。
 結局俺は苦痛で涙が滲む程に食べさせられ、2時間後にやっと解放されて店を後にしたのだった。


 電車で数駅といっても、都内では歩いてもたいした距離じゃない。
 満腹でどうにも働かない頭をどうにかしようと、俺から頼んでホテルまで歩いていくことになった。到着するまでには少しはマシになっているだろうから。
 その間たいした話はしなかったけれど、いつも俺が後ろをついていくのとは違って、中嶋さんは俺と肩を並べて、俺の歩調に合わせて歩いてくれていた。思い切り食べさせたことを少しは反省しているのだろうか。
 やがて高いビルの中でもひときわ高く、際立って綺麗なネオンを光らせているホテルが見えてきて、いよいよだと気持ちが湧き立ってくる。
 ロビーの受付で、俺ちゃんと名前とか言えるだろうか。自分で予約して泊まるなんて始めてだよな。
 お腹の苦痛がやがて気にならなくなったとき、俺達はようやくホテルにたどり着いた。
 大理石に囲まれた暖色の柔らかいライトに照らされた広いロビーと、同じように宿泊しようとしているたくさんのカップルに緊張しながら、中嶋さんを待たせておいて受付に並ぶ。
 ほんとうに、こんなところに今から中嶋さんと泊まるんだと思ったら、何度も何度も逃げ出したいような、いてもたってもいられないような気持ちに襲われて落ち着かない。
「おい、何をそわそわしてるんだ。じっとしてろ」
「わっ」
 気が付くと、ロビーで待っていたはずの中嶋さんが横に立っている。
「すいません、ちょっと緊張しちゃって……」
「ただの受付だろう。なんなら俺がするか?」
「いえ、いいです、大丈夫です」
 俺の名前で予約したんだし、ここで中嶋さんを頼ったらかっこ悪い。俺が断っても中嶋さんは心配なのか、そのまま側に立っている。
 目の前の人の受付が終わって、いよいよ俺の番になって俺は前に踏み出した。
「あの、今日予約した伊藤ですけど……」
 今日の計画は最後まで成功するって信じていた俺に向けられた受付の人の冷たい目。
 どうしてかと思うより先に、その人が口にしたのは信じられない言葉だった。


 それから後のやりとりは、頭が真っ白になって何も覚えてない。
 気が付いたら、俺と中嶋さんは再び冷たい風がひどくなった外に放り出されていた。
「……これからどうする? 啓太」
 数歩前で長いコートをなびかせていた中嶋さんが振り返り、俺を見下ろしている。しばらくしてから、呼ばれたことに気が付いて顔を上げた。
 中嶋さんの表情からは、何もうかがい知ることはできない。蔑みも罵りもせず、ただ俺を見ているだけだ。日付を間違えて予約していた俺に何も言わない。
 イブの朝を一緒に過ごしたいと、俺は23日の夜を予約していたのだった。いつからか、それを24日の夜に泊まるのだと思い込んでいた。
 既にキャンセル扱いになっている事を告げられ呆然とする俺に、更に受付の人が告げたのは、無断のキャンセルによる、一泊代金プラス5割分のキャンセル料金の支払いだった。クリスマスの時期で、キャンセル料金も特別扱いになっていたんだ。
 ツインの料金と交通費しか持っておらず、でもそのことを告げることもできず蒼白になっている俺の横で、中嶋さんが何も言わずに料金を支払った。
 ――――それから、今俺達は外にいる。
 もちろん、今日の部屋など空いているわけもない。
「あ……俺、さっきの支払ってない……」
 持っている分だけでも返そうと慌てて財布を取り出すと、中嶋さんは短く「いい」と言って決して受け取ろうとしない。
「でも……っ」
「それより、これからのことを決めてくれ」
「……もう、帰るしか……」
「都内は走ってるが、途中で終電になって家まではたどり着けない時間だな」
 時計を見るともう10時を回っていて、俺も実家までは帰れない時間だった。
 冷たい風が全身にふきつけ、身体中が冷え切っている。それはもちろん中嶋さんもだ。こんな夜中に、俺のせいで中嶋さんまで放り出されたんだ。自分の情けなさに出てくるのは謝罪の言葉だけで。
「あの……ごめんなさい、中嶋さん……。ほんとうに、ごめんなさい……」
 俺が一ヶ月の間努力してきたこと、そればかりか中嶋さんにわざわざここまで来てもらったこと。何もかもが台無しになってしまったんだ、俺のせいで。
 ショックで次にどうすればいいかとか、中嶋さんにどうやって償えばいいのか何も考えられない。
 中嶋さんが俺に向きなおる。
「啓太は何のためにホテルを予約したんだ?」
「……え……」
 突然の問いに、一度目を合わせてから俯いて正直に答える。
「そ、それは……、……中嶋さんと、ずっと一緒にいたいって……」
「一緒にいるだけでお前は満足なのか?」
 どういうつもりで言っているんだろう。一緒にいて、俺が期待すること。今の状況でそれを素直に答えるなんてできない。沈黙したままでいると、中嶋さんが腕時計を見ながら言葉を続ける。
「それだけなら、どこででも叶うだろう。別にここでなくたっていい。今の時間ならキャンセルが出て空きも多少出てるはずだ」
 俺を促すように首を振って、中嶋さんが歩き出した。
「落ち込むのは後にしろ、行くぞ」
 俺に自己嫌悪に陥る暇も与えずに。



(→中編)